冬が近づいたころ、コールから珍しく相談の連絡が来た。いつもの報告ではなかった。件名は一行。『児童会選挙のこと』。彼女の通う小学校では、十二月に児童会の役員を選ぶ。五年生から副会長を二人。クラスの推薦で、コールの名前が挙がったのだという。祖母の家の二階を訪ねると、模造紙の横に、新しい紙が一枚増えていた。そこには候補者の名前が四つ並んでいる。コール。そして同じクラスの汐里という女の子。ほかに隣のクラスから二人。「出るの?」と私が聞くと、コールはうなずいた。「出ます。推薦された理由が、『コールなら、ちゃんと決めてくれそうだから』でした。それなら、断るのは筋が違う」「勝てそう?」「わかりません。汐里のほうが、人気があります。優しいので」そう言って、彼女は少し笑った。「私は、優しいとはあまり言われません。正しい、とは言われます。正しいは、選挙ではあまり票になりません」ガルちゃんが麦茶を運んできて、「わたしは一票入れたいけど、カンガルーは選挙権ないの」と残念そうに言った。 相談の中身は、選挙そのものではなかった。クラスの男子のひとり、湊という子が、コールの選挙を手伝いたいと申し出たのだという。湊はトイカケの熱心なユーザーで、学童の端末で毎日問いを立てている。その湊が、こう提案した。「トイカケのログ見れば、みんなが学校の何に困ってるか、全部わかるやろ。それに合わせて公約つくれば、絶対勝てるって」コールはその言葉を、そのまま私に伝えた。「どう思いますか」と彼女は聞いた。私は少し考えた。事業の世界なら、それは『顧客の声を製品に生かす』と呼ばれる。悪いことではない。だが、ここは違う、と感じた。「ログは、何のために子供が書いたものか、だね」と私は言った。コールはうなずいた。「みんな、問いを立てるために書きました。私を選挙で勝たせるためじゃない。使ったら、トイカケは、私の選挙の道具になります」彼女は模造紙の二行目を指でなぞった。『子供の言葉を売らない』。「売らない、には、自分のために使わない、も入っています」湊には、その日のうちに断りを入れたという。湊は少しむくれたが、「まあ、コールらしいわ」と言ったそうだ。 代わりにコールがしたことは、地味だった。昼休みと放課後に、一人ずつ話を聞いて回ったのだ。全校で三百人近くいる児童のうち、五年生と四年生の百人あまり。ノートに、聞いたことを短く書き留める。『体育館の時間割が不公平』『図書室が早く閉まる』『一年生が廊下で泣いていても、誰も声をかけない』。一週間で、ノートは半分埋まった。「AIを使えば一時間で終わることを、一週間かけた」と私が言うと、コールは首を振った。「AIを使えば一時間で、みんなの困りごとが『わかった気』になります。会って聞くと、困ってる顔がわかります」それから、ノートを閉じて付け加えた。「それに、選挙のための話は、選挙のためだと言って聞かないと、ずるいです」彼女は話を聞くたびに、最初にこう言っていたという。『副会長に立候補したコールです。公約を作りたいので、困っていることを教えてください。誰に入れるかは、関係なく』。政治観、という言葉は、十歳の子にはまだ大きすぎるかもしれない。だが彼女は、票をもらうことと、意見を聞くことを、はっきり分けて考えていた。 投票日の三日前、事件が起きた。クラスのグループで、一枚の画像が回ってきたのだ。生成AIで作られた画像だった。汐里が、給食のプリンを一人で十個抱えている。その下に『汐里が副会長になったらプリンは汐里のもの』という文字。誰が作ったのかはわからない。冗談のつもりだったのだろう。実際、クラスの何人かは笑っていた。だが、汐里は笑っていなかった。休み時間、トイレから目を赤くして戻ってきたという。コールはその画像を見て、すぐに湊に聞いた。「これ、誰が作ったか知ってる?」「知らん。たぶん隣のクラスのやつ。でも、コールには得やろ」コールは、その言葉に一瞬だけ黙った。そして、短く言った。「得じゃない。損でもない。間違ってる」その夜、私に届いた報告は三行だった。『汐里の偽画像が出ました。作った人を探すのは先生の仕事です。私は、私の演説を書き直します』。私は返信に迷い、結局、一言だけ送った。『了解』。余計なことを言う場面ではなかった。 投票日の朝、体育館で立会演説会が開かれた。候補者は一人二分。コールの順番は三番目、汐里の次だった。汐里の演説は、声が少し震えていた。それでも最後まで言い切った。『一年生が泣いていたら、すぐ声をかけられる学校にしたいです』。拍手が起こった。コールは壇上に上がり、マイクの高さを直した。私は保護者席の後ろから、それを見ていた。祖母が隣で、手を膝の上で固く組んでいた。「コールです」と彼女は言った。「最初に、公約と関係ないことを言います。三日前、汐里さんの、うその画像が回りました。生成AIで作ったものです。汐里さんは、プリンを十個も食べません。私が知っている限り、一個も残しません」体育館に、小さな笑いが走った。張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。コールは笑いが引くのを待ってから続けた。「笑えるうそでも、うそはうそです。誰かを選ぶときに、うそを混ぜないでください。私に入れてほしいとは言いません。どう選ぶかだけ、お願いします」 残りの一分で、彼女は公約を三つだけ述べた。体育館の時間割を、学年で順番に回す。図書室を、月に二回、放課後一時間延ばしてもらうよう先生に頼む。そして、一年生が困っていたら、上級生が声をかける当番を作る。「三つ目は、汐里さんと同じです。同じなので、どちらが副会長になっても、やります」それで二分ちょうどだった。余った言葉は、ひとつもなかった。コールは一礼し、壇を降りた。拍手は、汐里のときより少し小さかったかもしれない。結果は、その日の午後に出た。副会長は二人。一人目は汐里だった。二人目は隣のクラスの男の子で、コールは三位だった。二票差だったという。放課後、私は校門の前で彼女を待った。出てきたコールは、いつもと同じ顔をしていた。後ろから汐里が走ってきて、コールの袖をつかんだ。何か言いかけて、言葉にならないようだった。コールは汐里の手を握り、短く言った。「おめでとう。三つ目の公約、一緒にやろう」汐里は泣きながら、何度もうなずいた。 帰り道、坂を上りながら、私はコールに聞いた。「悔しい?」「少し」と彼女は答えた。「二票なら、湊の言うとおりにログを使っていたら、勝っていたかもしれません」「後悔してる?」「してません」即答だった。「勝つためにやったら、勝ったあとに、みんなの前で胸を張れません。副会長になって、毎朝『私はみんなの言葉を勝手に使いました』と思いながら朝礼に立つのは、嫌です」坂の途中で、彼女は立ち止まった。眼下に港が見えた。冬の澄んだ空気の中で、造船所のクレーンが、夕日に赤く染まっていた。「それに」とコールは言った。「三位でも、当番は作れます」ガルちゃんが、ポケットのベビーを揺すりながら追いついてきた。「選挙、どうだった?」「負けた」「そっか。じゃあ、今日のおやつはプリン十個だね」コールは吹き出した。この一年で、彼女が声を上げて笑うのを見たのは、たぶん初めてだった。「一個で、いい」と彼女は言った。「残さず食べるから」 それから何年かが経った。この記録を書いている今、コールはもう十歳ではない。トイカケは長崎の外にも広がり、模造紙の三行は、少しも書き換えられないまま、どこかの事務所の壁に貼ってあると聞く。私は担当を外れ、彼女に会う機会も減った。それでも、ときどき思い浮かべる。高校の制服を着た彼女を。どこかの会議室で、自分より何十歳も年上の大人たちを前に、『作りません』と言う彼女を。誰かが困っている場で、ちょうどいい冗談をひとつ置いてから、本題に戻る彼女を。どんな場面でも正しくあり続けられる人は、本当に少ない。考え、決め、取り組み、そして人前でどう振る舞うか。張りつめた空気の中でも頭は冷えたまま、必要なときだけ、笑いをひとさじ。その分量まで含めて、彼女の判断は確かだった。十歳のコールは、正しいことを、正しいやり方で行える子だった。だから私は今も、彼女がどんな大人になっていくのかを、楽しみにしている。ノートの最後のページは、まだ白いまま残してある。続きを書くのは、もう私ではないのかもしれない。