合宿五日目の夕方、職員室のラジオが台風の進路を告げた。五島列島の西を北上、夜半にもっとも接近。窓の外の海は、昼間の青をすっかり失って、鉛のような色にうねっていた。夕食のあと、ガル軍曹は全員を体育館に集めた。キャップのつばを指で押し上げ、短く告げる。「夜間演習を行う」。ざわめきが起きかけて、すぐに消えた。五日間で、子供たちは軍曹の沈黙の長さを覚えていた。「明朝八時、模擬審査。審査員役は島の大人三名。一分隊三分。資料は今夜中に作れ」「台風の中で、ですか」と第一分隊の大翔が聞いた。「台風の中で、だ。本番の日に晴れている保証はない」。軍曹はおなかのポケットに手を添えた。中の新兵は、風の音をものともせず眠っているらしかった。「条件は一つ。何が起きても、八時に立て。以上」「了解」。湊は、隣の紗良の横顔を見た。紗良は窓の外ではなく、手元のノートを見ていた。この五日間で書きためた、港の聞き取りのメモだった。 二十一時十二分。体育館の照明が、ばつんと音を立てて消えた。一瞬の静寂のあと、誰かの悲鳴と、窓を叩く雨の音が同時に押し寄せた。タブレットの画面だけが、暗闇の中にぽつぽつと白く浮かんでいる。「Wi-Fi、切れた」「AI、動かない」「ねえ、これどうすんの」。湊の声も、思ったより上ずっていた。この五日間、困ったらまず画面に聞いてきた。その画面が、何も答えなくなった。そのとき、懐中電灯の光が一本、まっすぐ床を照らした。「全員、その場に座れ」。軍曹の声は、昼間とまったく同じ高さだった。それだけで、体育館の空気が少し落ち着いた。「各分隊、状況報告。結論から」。第三分隊では、紗良がいちばん早かった。「停電。回線なし。タブレットの電池は、平均で三割です」「判断は」。紗良が湊を見た。湊は三秒、目を閉じた。焦りで頭の中がざわざわしている。けれど、軍曹の声の高さを思い出して、自分の声を一段低くした。「タブレットは、写真を見るときだけ使います。資料は紙で作ります」「よろしい。始めろ」 LEDランタンが一分隊に一つずつ配られた。ろうそくは禁止だ。「火は、嵐の夜にいちばん要らない味方だ」と軍曹は言った。第三分隊は、ランタンを囲んで床に模造紙を広げた。湊が真ん中に太く書く。結論、アミノメ。港の網を、見える化して、みんなで片付ける。「で、次。役割を決める」。湊の言葉はいつもより短かった。短くしないと、手が震えそうだった。「健太は絵。網とスクリューの絵」「了解」「ルカは、ばあちゃんの言葉。覚えてるやつ、全部」「任しとき」「紗良は数字。本物だけ」「最初からそのつもり」。紗良はノートをめくり、聞き取りの日付と人の名前を一つずつ書き写していった。AIなら一瞬で整えてくれた表を、鉛筆で一本ずつ線を引いて作る。遅い。けれど、線を引くたびに、どの数字が誰の口から出たものか、指先が覚えていく気がした。隣の分隊からは、まだ「電気、いつ戻るの」という声が聞こえていた。湊は、少しだけ得意になりかけて、やめた。三十分前の自分も、同じことを言っていたからだ。 二十二時を回ったころ、湊はふと顔を上げた。ランタンの輪の中に、三人しかいない。「健太は」。紗良とルカが首を振った。トイレに行くと言って出ていったのは、十分ほど前だ。湊の心臓が跳ねた。廊下は真っ暗で、外は台風だ。探しに走り出したい足を、湊は床に押しつけた。言い訳は三秒以内。なら、判断も三秒で足りるはずだ。靴箱を見る。健太の靴はある。外には出ていない。湊は懐中電灯の光の方へ歩いた。「軍曹。報告します。健太が十分前から不在。靴はあるので、校舎内です」「よし。二人一組で探せ。外には出るな。見つけたら、声を三回」。湊とルカは東の廊下へ、紗良は軍曹と西へ。理科室の扉の向こうで、がたん、と何かが鳴った。開けると、ずぶ濡れの健太が、外れかけた窓を両手で押さえていた。「風で開いてて、雨が入ってて、標本が濡れそうで」。湊は大きく息を吐いて、声を三回出した。駆けつけた軍曹が、窓を閉めながら言った。「健太。報告が先だ」「すみません。でも窓に、言い訳は三秒以内って言ったら、ちゃんと閉まってくれました」。軍曹は一瞬黙り、それから、暗がりで肩を小さく揺らした。 理科室から戻る途中、湊たちは第一分隊の大翔に呼び止められた。廊下の暗がりで、大翔は一枚の紙をひらひらさせていた。「これ、職員室の前に落ちてた。明日の審査員の質問リスト」。懐中電灯で照らすと、確かに『模擬審査 想定質問』と印刷されている。「一緒に対策しようぜ。どうせ停電で、誰も見てないし」。湊は、思わず手を伸ばしかけた。今夜、紙とペンだけで戦っている。せめて何を聞かれるかがわかれば、どれだけ楽か。そのとき、ルカが静かに言った。「それ、ばあちゃんに見せられる?」。大翔が鼻で笑う。「関係なくね?」「関係あるよ」と紗良が言った。声は小さいが、ぶれていなかった。「見たら、明日の答えは全部、私たちのものじゃなくなる。うまく答えられても、それはこの紙が答えたことになる」。湊は伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。嵐の音が、廊下の窓をがたがた揺らした。「見ない」。湊は言った。「それ、軍曹に返す。拾ったものは、持ち主に」。大翔はしばらく黙っていた。それから、紙を湊の手に押しつけるように渡した。 軍曹は、懐中電灯の明かりの下で紙を受け取った。表と裏を一度ずつ見て、上着の内ポケットにしまう。「誰が拾った」「第一分隊の大翔です。持ち主に返すって、一緒に決めました」。湊は少しだけ、事実を丸めた。大翔が驚いた顔でこちらを見た。軍曹はその顔を見て、それから湊を見た。何もかもわかっている目だった。「中は見たか」「見ていません」「了解。下がれ」。それだけだった。褒め言葉も、叱る言葉もなかった。体育館に戻る途中、大翔がぼそりと言った。「……なんで俺のこと、かばったんだよ」「かばってない。返したのは本当だろ」。大翔は鼻をすすった。雨のせいかどうかは、暗くてわからなかった。ランタンの輪に戻ると、ルカが手首の木のビーズを指で一つずつ送っていた。大翔がそれを見て、遠慮がちに聞いた。「それ、お祈り? 効くの?」。ルカは指を止めずに答えた。「効くかどうかは知らん。でも、落ち着く。あんたは何で落ち着くと?」。大翔は少し考えて、「……ゲームの音楽」と答えた。ルカは笑わなかった。「じゃあ、それば頭の中で流しとき」 零時。軍曹の懐中電灯が、各分隊の輪を順に照らした。「就寝。残りは朝やれ」。あと少しで終わります、と湊は言いかけて、三秒で飲み込んだ。軍曹が先に言ったからだ。「睡眠も装備だ。眠らずに立つ兵は、八時に倒れる」。四人は模造紙を丸め、体育館の隅で寝袋にもぐった。風はまだ唸っていたが、不思議と怖くなかった。五時四十分、天井の照明が一斉に点いた。電気が戻ったのだ。Wi-Fiのランプも、緑に光っている。タブレットに飛びつく分隊もあった。今から全部AIで作り直せば、間に合うかもしれない。湊も一瞬、そう思った。けれど紗良は、模造紙の写真を一枚だけ撮り、こう打ち込んだ。『この発表の弱点を三つ。厳しめに』。返ってきた答えの一つ目は、『被害の全体像が不明』。二つ目は、『誰が回収を続けるのか不明』。三つ目は、『名前の由来が伝わりにくい』。「三つ目、ひどくない?」と健太が言い、四人は笑った。直したのは二つ目だけだった。一つ目は、わからないと正直に言う。三つ目は、健太の絵で伝える。AIは、作らせるより、叩かせるほうが役に立つこともある。 八時。台風が去った校庭は、嘘みたいに晴れていた。水たまりに青い空が映り、折れた枝があちこちに散らばっている。審査員役の三人の中には、ルカの祖母が組合長として座っていた。第三分隊の発表は、模造紙一枚と、健太の網の絵だけだった。湊は結論から話し、紗良は数字の出どころを一つずつ読み上げ、ルカは祖母の言葉を、本人の前で照れながら引用した。質問は一つだけだった。「回収は、誰が続けると?」。夜明けに直した答えを、湊は三秒で返した。演習の終わりに、軍曹は全員の前に立った。「講評。昨夜、停電の中で最初に判断したのは、機械ではなかった」。短い言葉だったが、子供たちは黙って聞いた。緊迫した状況でも声を荒げず、仲間を探すときにも足を止めて考える。正しくないものに手を伸ばしかけて、引き戻す。そういう判断力は、教室では教えられない。嵐の夜にだけ、静かに試される。解散のあと、湊は軍曹がポケットをのぞき込むのを見た。「……新兵は」「熟睡していた。台風のあいだ、一度も起きずに」。軍曹はそう言って、ほんの少しだけ、誇らしそうな顔をした。