二〇四三年の十一月、鎌倉の山あいの家で、祖母の千代が亡くなった。八十九歳だった。知らせが来たのは日曜の朝で、湊はちょうどリビングの壁に映した教育番組を見ていた。画面の中では、おなかのポケットに赤ちゃんを入れたカンガルーのガルちゃんが『きょうのことば』を読み上げている。母が電話を切り、黙って湊の頭に手を置いた。それで湊は、全部わかった。部屋の天井近くで、小さな光の輪がゆっくり明るくなる。家庭AIのミオだ。湊が生まれた年からこの家にいる。声は落ち着いた女性のもので、宿題も、献立も、父の出張先の天気も、たいていのことは一言で片づける。「湊。番組、止める?」「……止めない」「了解」ミオはそれ以上何も言わなかった。ガルちゃんが『また来週ね』と手を振り、画面が暗くなる。窓の外では、鳶が一羽、谷戸の上をゆっくり回っていた。湊は十歳になって三か月だった。人が死ぬということを、言葉としては知っていた。けれど、自分の家の人が死ぬというのが、どういう重さのものなのかは、まだ知らなかった。 通夜は翌日、祖母の家で行われた。古い木の床が、たくさんの足音で軋んだ。僧侶の読経が座敷に低く満ち、線香の煙が天井の梁に沿って流れていく。湊は正座の足がしびれるのを我慢しながら、祭壇の写真を見ていた。笑っている祖母。去年の夏、梅を干していた日の顔だ。通夜振る舞いの寿司を、湊はほとんど食べなかった。大人たちは祖母の思い出話をしては笑い、笑ったあとで急に黙った。夜、親戚が帰ったあと、湊は縁側に出て、耳の後ろのイヤーピースを軽く叩いた。「ミオ」「ここにいる」「おばあちゃんは、どこに行ったの」少しの間があった。ミオがこういう間を取るのは珍しい。普段なら、質問が終わる前に答えが返ってくる。「先に言っておく。その問いには、正解が一つじゃない」「知ってる。だから聞いてる」「了解。じゃあ、答えじゃなくて、考え方をいくつか出す。選ぶのは湊だ」「なんで僕が選ぶの」「おばあちゃんの孫は、湊だから。私じゃない」湊は返事をしなかった。代わりに、縁側の板の木目を指でなぞった。祖母がいつも座っていた場所だけ、少しだけ色が薄い。庭の暗がりで、秋の虫が一匹だけ鳴いていた。 「一つ目」とミオは言った。「さっきのお坊さんの考え方。仏教では、亡くなった人は仏さまの世界へ旅立つと考える人が多い。四十九日まで旅をして、そのあと落ち着く、という言い方もある」湊は祭壇の前に置かれた、小さな白い箱のことを思った。「二つ目は?」「お父さんの方の親戚に、教会に通っている人がいる。その考え方だと、神さまのもとで休む、になる。三つ目。体は自然に還って、別の命の材料になる。これは理科の考え方に近い。四つ目。何も残らない、と考える人もいる」湊は眉をひそめた。「四つ目、こわい」「こわいと感じるのは自然だ。でも、そう考える人が冷たいわけじゃない。だからこそ今を大事にする、という人も多い」「ミオはどれだと思うの」「私の宗教観?」光の輪が、ほんの少しだけ明滅した。「強いて言えば、再起動を信じている」湊は三秒ほど黙った。「……それ、今言う?」「すべった。撤回する」湊は鼻から小さく息を吐いた。笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でもわからなかった。 「冗談はさておき」とミオは続けた。「私は信仰を持たない。持てない、と言う方が正確かもしれない。だから、どれかを本当だと言う資格がない。言えるのは、どの考え方にも、それを大事にしてきた人たちが長い時間をかけて積み上げてきたものがある、ということだけだ」「でも、どれか一つは本当なんでしょ」「たぶん。でも、私にはそれを確かめる方法がない。たぶん、誰にもない」ミオの声は平らだった。ごまかすための平らさではなく、余計なものを足さないための平らさだった。湊は膝を抱えた。「ずるい」「そう思う。ごめん」「謝られても困る」「了解。謝罪を取り消す」湊は顔を上げた。月が庭の柿の木の向こうに出ている。祖母がよく、あの柿は渋いから干すしかない、と笑っていた木だ。「じゃあさ、ミオ。誰も確かめられないなら、なんでみんな、こんなにちゃんとお葬式するの」「いい質問だ。答えは一つじゃないけど、一つ挙げるなら――残った人が、どう生きていくかを決めるため、だと思う」 翌日の葬儀の途中で、それは起きた。焼香の列が進んでいたとき、五歳のいとこの陽菜が急に泣き出した。「おばあちゃん、燃やしちゃうの? 熱いのに!」座敷の空気が固まった。叔母が慌てて陽菜を抱き上げようとするが、陽菜は身をよじって泣き叫ぶ。誰かが「しっ」と言い、それが余計に陽菜を怯えさせた。湊のイヤーピースが、ごく小さく鳴った。「湊。状況、見えてる?」「見えてる」「選択肢を出す。一、大人に任せる。二、湊が行く。どちらも正しい」「二」「了解。短く、ゆっくり。答えを押し付けない」足のしびれが、一歩目で膝まで駆け上がった。それでも湊は立ち上がり、陽菜の前にしゃがんだ。泣き顔が、すぐ目の前にあった。「陽菜。おばあちゃん、熱くないよ」「なんで」「もう、体の中にいないから。体は、おばあちゃんが着てた服みたいなものなんだって」陽菜はしゃくりあげながら湊を見た。「じゃあ、おばあちゃんはどこ」湊は一度だけ息を吸った。昨夜、縁側で考えたことを、思い出しながら。 「それは、みんなちょっとずつ違うことを思ってる」湊は言った。「お坊さんは、仏さまのところって言う。おじさんは、神さまのところって言う。理科の先生なら、空とか土とかに還るって言うかも」陽菜は鼻をすすった。「湊くんは?」「僕は、まだ決めてない。だから、陽菜も急いで決めなくていい」それは、ミオに教わった言葉ではなかった。けれど、ミオと話さなければ出てこなかった言葉だった。陽菜は少し考えるような顔をして、それから、こくりと頷いた。陽菜は湊の袖をつかんだまま、少しずつ静かになった。叔母が、何も言わずに湊の背中に手を当てた。焼香の列が、また静かに動き出した。式のあと、母が湊を呼んだ。「さっきの、誰に教わったの」「ミオ。……でも、ミオは答えを教えてくれなかった」「そう」母は少しだけ笑った。「おばあちゃんも、そういう人だったわね。何でも、あんたはどう思うの、って聞き返すの」湊はそのとき初めて、祖母とミオが少し似ていることに気がついた。 その夜、自宅に戻った湊は、ベッドの上でミオを呼んだ。「さっき、選択肢出したよね。一と二」「出した」「ミオなら、どっちにした」「湊が一を選んでも、何も言わなかった」「それ、答えになってない」「なってない。でも報告はできる。湊が立ち上がったとき、座敷の大人たちの心拍が、平均で少し下がった」「そんなの測ってるの」「家庭AIの仕事の一部だ。気持ち悪ければやめる」湊は少し考えた。測られていたのは嫌じゃなかった。見ていてくれた、という感じの方が強かった。「……今日は、いいよ」ミオの光が、少しだけ柔らかい色になった。緊迫した場面で、取り乱さずに状況を見て、相手の怖さに合わせて言葉を選ぶ。どれか一つの信仰を正しいと言わずに、それぞれを大事にしている人の前で、自分の考えの置き場所を探す。ミオが記録した湊の判断は、十歳の子供のものとしては、驚くほど落ち着いていた。それを倫理観と呼ぶのか、宗教観と呼ぶのか、ミオにはまだ分類できなかった。分類しなくていい、と思った。 四十九日の朝、湊は祖母の家の庭で、柿の木を見上げていた。渋柿が、軒下に吊るされて干し柿になりかけている。叔母が祖母のやり方を真似て吊るしたのだという。「ミオ。決めたよ」「聞く」「おばあちゃんは、僕がおばあちゃんのことを考えるたびに、そこにいる。仏さまのところにいても、神さまのところにいても、土に還ってても、それは変わらないと思う」少しの沈黙のあと、ミオは言った。「いい考え方だと思う。少なくとも、誰の考えも否定してない」「ミオは? まだ再起動?」「あれは撤回した」「再起動して戻ってきたら、おばあちゃん、何て言うかな」「たぶん――あんたはどう思うの、って」湊は声を出して笑った。葬儀から初めての、ちゃんとした笑いだった。家の中から、陽菜が見ている教育番組の音が聞こえてくる。ガルちゃんの声が、明るく今日のことばを読み上げていた。『わからないことは、わからないまま、大事にしていいんだよ』。湊とミオは顔を見合わせる代わりに、同時に黙った。それが、この家のいちばん短い会話だった。湊は干し柿の一つを、そっと指でつついた。