合宿最終日の朝、子供たちは福江港からフェリーに乗った。行き先は佐世保。卒隊式と、未来ファンドの審査を兼ねた最終ピッチが、港に面したホールで行われる。甲板に整列した二十人の前で、ガル軍曹は最後の朝礼をした。潮風がキャップのつばを揺らしている。「本日の任務。三分で、自分たちの事業を話せ。以上」「以上ですか」と健太が聞いた。「以上だ。これまでの十日で、言うべきことは全部言った」。そこで軍曹は、少しだけ間を置いた。「一つだけ追加する。審査員は、お前たちの親より厳しく、お前たちの敵より優しい。遠慮なく、ぶつかれ」「了解」。二十人の声が、エンジン音に負けずに海へ響いた。湊は手すりにもたれ、遠ざかる島影を見た。港の防波堤の内側には、今朝もきっと網が溜まっている。それを知っているのは、この船の上では自分たち四人と、ポケットの中で揺られている新兵くらいかもしれない。紗良が隣に来て言った。「緊張してる?」「してない」「三秒以内に言い直して」「……してる」。紗良は笑い、湊も笑った。 佐世保のホールは、思っていたより広かった。正面の長机に、未来ファンドの審査員が三人並んでいる。地元で造船部品の会社を起こした白髪の女性。銀行で長く働いていたという眼鏡の男性。それに、去年このファンドから投資を受けたという、高校一年生の起業家。客席には保護者と、島から駆けつけた漁協の人たちがいた。ルカの祖母の麦わら帽子も、後ろの方に見えた。控室で、子供たちは誰もしゃべらなくなっていた。湊の膝が、勝手に小刻みに揺れている。そこへ、軍曹が入ってきた。全員が背筋を伸ばす。軍曹は部屋をひと回り見渡し、低い声で言った。「報告。本日の新兵は、フェリーで酔った」。一拍おいて、控室じゅうが笑いに包まれた。ポケットの中から、小さな、不満そうな声がした。「以上。持ち場につけ」。軍曹が出ていったあと、膝の震えは止まっていた。健太が小声で言った。「今の、絶対わざとだよね」「わざとでも、効いた」。紗良はそう答えて、模造紙の端をそっと撫でた。 最初に登壇したのは、第一分隊だった。大翔がマイクを握る。一日目に三枚のカラフルなグラフを掲げ、出典を聞かれて黙った分隊だ。けれど今日、スクリーンに映ったのは、福江島の観光案内所で数えたという、手書きの集計表だった。「結論。島の観光客は、港から一番近い店にしか寄らない。歩いて十分の店に、地図と割引で人を流します」。数字の横には、必ず小さな字で出どころが添えてあった。案内所の何曜日、誰に聞いたか。AIを使ったところには、『AIの推計。未確認』とわざわざ書いてある。湊は思わず、客席の端で腕を組む軍曹を見た。軍曹の表情は、何も変わらなかった。白髪の審査員が聞いた。「未確認と書いた理由は」。大翔は三秒もかけずに答えた。「本当かどうかわからないことを、本当みたいに見せたくないからです。前に、それで黙ったので」。会場から小さな笑いが起きた。大翔の耳が赤くなった。湊は胸の中で、静かに拍手をした。ライバルが強くなるのが、こんなにうれしいとは知らなかった。 「第三分隊」。名前を呼ばれて、四人は壇上に立った。照明がまぶしい。湊は一度だけ、客席の麦わら帽子を探した。見つけた。それで十分だった。「結論から言います。港に溜まる正体不明の漁網を、写真と地図で見える化し、回収を島のみんなで分担する仕組みを作ります。名前は、アミノメです」。健太の網の絵がスクリーンに映る。スクリューに絡まった網を、半泣きの魚が見上げている絵だ。客席から、くすっと笑いが漏れた。紗良が前に出る。「わかっていること。去年、福江島の一つの漁協で、三隻の船が網を巻き込んで止まりました。修理代は合わせて約三十万円。漁協の方への聞き取りです」。ルカが続ける。「網を拾っているのは、気づいた人です。うちのばあちゃんも、その一人です。ばあちゃんは、神様に頼むのは、自分で手を動かしてから、と言いました」。最後に、湊がもう一度前に出た。「生成AIは、写真の網を数えて、地図に印をつけるのに使います。でも、拾うのは人です。以上です」。三分ちょうどだった。 質疑の最初の手を挙げたのは、眼鏡の男性だった。「三十万円は、事業としては小さい。島全体では、いくらの被害なんですか」。会場が少し静まった。一日目の湊なら、ここで五百万円と言っていたかもしれない。紗良がマイクを取った。「わかりません」。審査員の眉が、わずかに上がった。紗良は続けた。「まだ誰も数えていないからです。だから、アミノメを作ります。網がどこに、どれだけ溜まっているかがわかれば、被害額も初めて計算できます。わからないことを、わかるようにするのが、最初の仕事です」。男性はしばらく紗良を見ていた。それから、手元の紙に何かを書きつけた。「いい答えです。私が銀行にいたころ、わからない、と言える社長は十人に一人もいなかった」。紗良は小さく頭を下げた。マイクを持つ手が、ほんの少しだけ震えていた。湊はその手を見て、合宿の一日目を思い出した。わからないことは、わからないと言え。いちばん難しいルール、と軍曹は言った。紗良は今、それを大人の前で、まっすぐ守ってみせた。 次に手を挙げたのは、高校生の審査員だった。「海のごみは、本来は国や市の仕事じゃないですか。子供が無料でやるのは、行政の手抜きを助けることになりませんか」。鋭い質問だった。客席の大人たちが、少しざわついた。湊は三秒、考えた。ここで誰かを悪者にするのは簡単だ。でも、それは自分の答えじゃない気がした。「市がやるべきだと思う人もいるし、自分たちでやるべきだと思う人もいます。どっちも、間違ってないと思います。だから、アミノメの地図は、市役所にも漁協にも、同じものを渡します。誰が片付けるかを決めるのは、僕たちじゃなくて、島の人たちです。僕たちは、どこに網があるかを、誰にでも見えるようにします」。高校生は少し笑って、うなずいた。最後に白髪の女性がルカに尋ねた。「AIに頼りすぎていると思うことは?」。ルカは迷わず答えた。「AIは、網を数えるのが得意です。ばあちゃんは、網を直すのが得意です。どっちも要ります。ばあちゃんのほうが、ちょっとうるさいけど」。今度は会場全体が笑った。後ろの麦わら帽子が、いちばん大きく揺れていた。 全分隊の発表が終わり、審査員たちは別室に下がった。待つ時間は長かった。やがて戻ってきた白髪の女性が、短く告げた。「未来ファンドは、今回二つのチームに出資します。第一分隊、そして第三分隊」。湊は一瞬、何を言われたのかわからなかった。紗良が湊の袖をつかみ、健太が両手を上げ、ルカは客席の祖母に向かって、親指を立てた。大翔が振り返り、湊とまっすぐ目を合わせた。二人とも、何も言わなかった。言わなくてもわかった。そして、卒隊式が始まった。二十人が壇上に並び、ガル軍曹が一人ずつ名前を呼んで、小さな布のワッペンを手渡していく。カンガルーの横顔が刺繍された、合宿の修了章だ。全員に渡し終えると、軍曹は正面に向き直り、ゆっくりとキャップを脱いだ。「これをもって、ブートキャンプを解散する」。声が、少しだけ変わった。「……ここからは、ガルちゃんに戻ります。みんな、十日間、ほんとうにおつかれさま」。その柔らかい声に、何人かが泣き出した。湊は泣かなかった。泣かないと決めていたからだ。三秒だけは。 夕方、佐世保の港で、子供たちはそれぞれの迎えの車や船に散っていった。ガルちゃんは岸壁に立ち、一人ひとりを見送った。ポケットの中で、ベビーが眠そうに鼻を鳴らす。最後まで残っていたのは、紗良だった。母親の車が遅れているらしい。「軍曹……じゃなくて、ガルちゃん」「なあに」「一日目、わからないって言うのがいちばん難しいって言ったでしょう。あれ、本当でした」。ガルちゃんは何も言わず、紗良の頭にそっと手を置いた。どんな場面でも、ずっと正しくふるまい続けられる人は、大人の中にだってそう多くはない。何を信じ、どう考え、どこで踏みとどまり、どんな顔で人と向き合うか。嵐の夜にも声を落ち着かせ、ここぞというところで小さな冗談をはさむ。紗良は、そのさじ加減まで含めて、自分の頭で選べる子だった。正しいことを、正しい手つきで行える子だった。この子が十年後、どんな顔をして、どんな仕事をしているのか。ガルちゃんは、それを見届けたいと思った。迎えの車のライトが近づいてくる。紗良は振り返り、最後に一度だけ、きれいな敬礼をした。ガルちゃんも、照れくさそうに、それを返した。