長崎に来て一年が過ぎた。ベビーは相変わらずポケットの中にいる。体はまだ小さい。けれど、頭の中身だけが、ある朝ふいに背伸びをしたように大きくなっていた。人間でいえば十歳くらい、とナオミは言った。「言葉の選び方が、もう赤ちゃんじゃないね」「生意気になっただけです」とガルちゃんは答えた。その日の朝食の席でも、ベビーはポケットから顔を出し、ちゃぶ台の上のタブレットをのぞきこんでいた。「ママ、夏休みの自由研究、端島にする」「軍艦島か」「うん。AIに訊いたら、ぜんぶ教えてくれた」画面には、きれいに整った文章が並んでいた。炭鉱の歴史、島の暮らし、閉山の年。ガルちゃんは読み進め、ある一行で止まった。――端島には最盛期、約一万人が暮らしていた。「これ、どこで確かめた」「AIが言った」「AIは、どこで確かめた」ベビーは黙った。ガルちゃんは、ナオミが貸してくれた郷土資料の本を棚から抜き、ページを開いて見せた。最盛期の人口は、約五千三百人。「……半分くらい違う」「違うな」ベビーはしばらく画面と本を見比べていた。それから、ポケットの中で小さく体を縮め、ぽつりと言った。「ママ、AIって嘘つく?」 ガルちゃんはすぐには答えなかった。お茶を一口飲み、湯呑みを置いた。答えを急ぐと、子供は答えだけを覚える。考える時間ごと渡したかった。「嘘というのは、本当のことを知っていて、わざと違うことを言うことだ」「うん」「AIは、たぶん、わざとじゃない。それらしい言葉を、それらしい順に並べるのが得意なんだ。だから、知らないことも、知っている顔で言う」「それ、嘘とどう違うの」いい質問だ、とガルちゃんは思った。いい質問は、答える側を試す。「わざとかどうかは違う。でも、聞いた側が困るのは同じだ」「じゃあ、どうすればいいの」「確かめる。二つ以上の場所で。片方は、できれば人間が責任を持って書いたもので」「めんどくさい」「めんどくさい。でも、それをやる者だけが、道具に使われずに済む」ベビーは口をとがらせた。「ママは全部確かめるの?」「全部はできない。だから、大事なことから確かめる。誰かを傷つけるかもしれないこと。お金のこと。命のこと」「軍艦島の人口は?」「自由研究に書いて先生に出すなら、大事なことだ」ベビーは観念したように、本をポケットの中に引きずり込んだ。重すぎて、ガルちゃんのおなかがぐっと下がった。「ママ、重い?」「重い。でも、いい重さだ」 午後、ガルちゃんは坂の下の公民館で、週に一度の『こどもAI教室』を開いている。始めたのは春だ。生徒は七人、小学三年生から六年生まで。月謝はとらない。代わりに、帰りに机を拭いてもらう。その日の議題は、ベビーの自由研究から始まった。「AIは間違える。だから、確かめる。今日はそれを練習する」すると、五年生の陽向が手を挙げた。「先生。じゃあ、AIに『神様っているの』って訊いたら、どうやって確かめるの」教室が静かになった。陽向の家は、大浦の教会の近くにある。隣の席の健太の家は、寺町の寺の裏だ。二人とも、互いのことを知っている。ガルちゃんは一呼吸置いた。「いい質問だ。それは、確かめ方が違う種類の質問だ」「違う種類?」「端島の人口は、記録を調べればわかる。神様がいるかどうかは、記録では決まらない。それぞれの人が、それぞれの家で、長い時間をかけて答えてきた問いだ」「AIは何て言うの」「訊いてみよう」画面に出たのは、慎重で、どちらにも寄らない答えだった。陽向は少し不満そうだった。「ずるい答え」「ずるくない。AIがここで『いる』とか『いない』とか決めつけたら、そっちのほうがずっと怖い」 健太が腕を組んだ。「じゃあ、先生は?いると思う?」ガルちゃんは窓の外を見た。坂の上に、教会の尖塔と寺の屋根が並んで見える。「草原にいた頃、長老は雨の前に、必ず空に頭を下げていた。誰に下げているのかは、言わなかった。私も訊かなかった」「それ、答えになってない」「なってない。でも私はそれを見て、何かを大事にしている者を笑わない、と決めた。それが私の答えだ」陽向と健太が、ちらりと目を合わせた。ベビーがポケットの中から言った。「ママのそれ、宗教観っていうの?」「難しい言葉を知ってるな」「AIに訊いた」「確かめたか」「……まだ」教室に笑いが起きた。それから話は、来月の市長選挙のことに移った。健太の父親はある候補を応援していて、陽向の母親は別の候補を応援している。二人はそのことで、昨日少し言い合いになったらしい。「AIに、どっちが正しいか訊けばいい」と健太が言った。ガルちゃんは首を振った。「それも、決めさせてはいけない種類の質問だ。AIには、それぞれの候補が何を言っているかを並べてもらう。比べて考えるのは、自分たちだ」「先生はどっち?」「言わない」「なんで」「私が言ったら、お前たちは考えなくなる。それに、私には投票権がない。カンガルーなので」 その週の金曜日、事件が起きた。夕方、陽向が泣きながら公民館に駆け込んできた。手にはスマートフォンを握っている。画面に映っていたのは、陽向の顔をした女の子が、ゴリラの体で給食をむさぼっている画像だった。生成AIで作ったものだと、一目でわかった。そして、それがクラスのグループで回っていることも。「誰が作った」とガルちゃんは訊いた。答えたのは、陽向ではなかった。ポケットの中から、小さな声がした。「……ぼく」空気が凍った。ガルちゃんは、おなかの中の重さが、急に何倍にもなったように感じた。怒鳴りたい衝動が、喉元までせり上がった。それを、一度、飲み込んだ。こういうときこそ、順番を間違えてはいけない。「状況を報告しろ。短く」ベビーは震える声で答えた。「健太に見せた。面白いって言われた。健太がグループに送った。ぼくは、止めなかった」「何人に回った」「たぶん、クラス全員」「了解」ガルちゃんは陽向の前にしゃがみこみ、目の高さを合わせた。「陽向。今いちばん困っていることは何だ」「……消してほしい。みんなに見られたくない」「わかった。それを最初にやる」 ガルちゃんはナオミに電話をかけた。用件は三つ。担任の先生への連絡、グループを管理している保護者への連絡、そして画像の削除依頼。一つずつ、短く、正確に伝えた。電話を切ると、次にベビーに言った。「健太に連絡しろ。消してもらう。それから、受け取った全員に、消してくれと頼む。お前の言葉で」「ママが言ったほうが早い」「早いが、意味がない」ベビーは自分の小さな端末で、一人ずつメッセージを送った。手が震えて、何度も打ち直した。ガルちゃんは横で見ていたが、一文字も手伝わなかった。三十分後、担任から連絡が来た。グループの画像は削除され、明日の朝、学級で話をするという。陽向の母親も迎えに来た。ガルちゃんは深く頭を下げた。母親は硬い顔のままだったが、最後に「対応が早くて、助かりました」とだけ言った。二人が帰ったあと、公民館の電気を半分消した。窓の外は、もう暗かった。ベビーはポケットの奥で丸くなっていた。「ママ、怒ってる?」「怒ってる」「どのくらい」「草原の火事くらい」「……そんなに」「でも、火事のときと同じだ。まず逃げ道を作る。怒るのは、そのあと」 帰り道、坂を上りながら、ガルちゃんは話した。「あの画像、なんで作った」「陽向、いつも給食おかわりするから。面白いと思った。冗談のつもりだった」「冗談は、悪くない」ベビーが驚いて顔を上げた。「火事の夜、私は若い雄の焦げた尻尾を笑いにした。みんな笑った。あいつも笑った」「じゃあ、なんで」「あいつが笑える場所で、あいつが笑える量だけ言った。それが、さじ加減だ。冗談は、相手が一緒に笑えるかどうかで決まる。言った側が面白いかどうかじゃない」坂の途中で、ガルちゃんは立ち止まった。「それと、もう一つ。お前は今朝、AIは嘘をつくかと訊いたな」「うん」「あの画像は、陽向じゃないものを、陽向に見せかけた。わざと。AIは道具だ。嘘をついたのは、道具じゃない」ベビーは長いこと黙っていた。港の灯りが、にじんで見えたのかもしれない。「……ぼくが、嘘をついた」「そうだ。そして、それを自分で言えた。それは、大事なことだ」「明日、陽向にあやまる」「了解。言葉は自分で考えろ。AIに書かせるな」「わかってる」少しだけ、声が笑った。 翌朝、ベビーは学校の前で、陽向に頭を下げた。ポケットから身を乗り出して、ほとんど落ちそうになりながら。何を言ったのか、ガルちゃんは聞いていない。少し離れた電柱の陰で、耳を伏せて待っていた。聞かないことも、親の仕事だと思った。陽向は最初、口をきかなかった。けれど一週間後には、ベビーの自由研究に文句をつけていた。「人口、本で確かめたって書いてあるけど、本の名前が書いてない」「……書く」その会話を聞きながら、ガルちゃんはこっそり笑った。夜、ベビーはノートに自由研究の結論を書いていた。――AIは、まちがえる。人間も、まちがえる。でも、わざとまちがえるのは、人間だけだ。だから、AIをつかう人間のほうが、気をつけなければいけない。ガルちゃんはそれを読んで、何も直さなかった。正しい答えは、教えることができる。けれど、正しく振る舞うことは、教えられない。見せることしかできない。倫理観というのは、たぶん、そういうふうにしか手渡せないものなのだ。ポケットの中で、ベビーが寝言を言った。「ママ、重い?」「重い」と、ガルちゃんは答えた。「でも、いい重さだ」