夜更け、ガルちゃんはノートパソコンの前で、生成AIの教科書を読んでいた。おなかのポケットの中では、ベビーがもぞもぞと動いている。眠ったと思っていたのに、まだ起きていたらしい。「ママ」「なあに」「ママは、どうして焚き火のにおいがきらいなの」ガルちゃんは、画面から目を上げた。昼間、公園でだれかがバーベキューをしていた。煙が流れてきたとき、自分が思わずベビーをポケットの奥に押しこんだのを、この子は見ていたのだ。「きらい、っていうのとは、ちょっと違うかな」「じゃあ、なに」ガルちゃんはパソコンを閉じた。少し考えてから、ポケットの上に手を置いた。「ずっと前、ママがまだオーストラリアにいたころの話。あなたのお兄ちゃんが、まだちょうどあなたくらいの大きさだったころ。長くなるけど、聞く?」「きく」ベビーが顔を出した。黒い目が、まっすぐこちらを見ている。ガルちゃんは、窓の外の暗がりを見た。あれから何年もたつのに、あの夏の空の色だけは、目を閉じなくても思い出せた。オレンジでも赤でもない、焦げた銅貨のような色だった。「ママが、十分間だけ、群れのリーダーをやった日の話」 十二月の終わり。ニューサウスウェールズ州の内陸にある、小さなカンガルー保護区。ユーカリの林と乾いた草地に囲まれて、四十頭ほどのカンガルーが暮らしていた。世話をしていたのは、マギーという六十代のレンジャーだった。日に焼けた腕と、短い白髪と、いつも少しだけ音程の外れた鼻歌。その日、朝から空がおかしかった。太陽が赤い円盤になり、昼なのに夕方のように暗い。風が熱く、灰が雪のように降っていた。マギーの無線が、ひっきりなしに鳴っている。「十五時十二分。西の尾根を越えた。風速は」「北西、強い。十五分以内に風が変わる見込み」群れはざわついていた。若いオスたちが、意味もなく柵の周りを跳ね回る。ガルちゃんはポケットのお兄ちゃんを抱えるように腹を丸め、群れの端に立っていた。まだ若い母親だった。リーダーでもなんでもない、ただの一頭。けれど、ガルちゃんには一つだけ、ほかのカンガルーにない癖があった。毎朝、マギーの無線を、柵の陰でじっと聞いていたのだ。人間の言葉の意味は半分もわからない。それでも、声の調子と、繰り返される単語は覚えていた。 十五時十四分。煙が濃くなった。群れの長、片耳の欠けた年寄りのオスが、西の林のほうへ鼻を向けた。煙の薄いほうへ。そこに逃げれば、少なくとも今は息ができる。群れの半分が、もうそちらへ体を向けていた。ガルちゃんの耳が、マギーの無線を拾った。「風が南西に回る。火の側面が東へ振れる。西の林は、五分後には火の通り道だ」意味の全部はわからなかった。でも、西という単語と、マギーの声の硬さはわかった。毎朝聞いてきた声の中で、一番硬い声だった。ガルちゃんは群れの長の前に跳び出した。若い母親が長の進路をふさぐなど、ありえないことだった。長が低く唸る。ほかのオスたちが、何をしているのかと首をかしげる。「西はだめ」カンガルーの言葉で、ガルちゃんは言った。「風が回る。いま煙が薄いところが、すぐ一番熱くなる」「若いのが、何を知ってる」「何も知らない。でも、マギーが知ってる。わたしは、マギーの声を毎朝聞いてた」長が、ガルちゃんを見た。その目の奥に、怒りではなく迷いがあるのを、ガルちゃんは見た。長も、怖いのだ。 十五時十五分。マギーのトラックが、エンジンをうならせて草地に入ってきた。運転席から身を乗り出し、マギーが東の柵を指さして叫んだ。「東のゲートを開ける。川へ行け。昨日焼いた防火帯がある。燃えるものはもう残ってない」マギーは、ガルちゃんと目が合った。ほんの一瞬。それから、彼女は笑った。こんなときに、と思うくらい、いつもの顔で。「あんた、いつも柵の陰で聞いてた子だね。ちょうどいい。通訳を頼むよ」もちろん、マギーにはカンガルーの言葉はわからない。わかっているふりをしているだけだ。けれど、その一言で、ガルちゃんの足の震えが止まった。無線の向こうでは、人間たちが言い争っていた。誰の責任だ。なぜもっと早く避難命令を出さなかった。予算がどうの、方針がどうの。マギーは無線のつまみをひねって、音を絞った。「誰のせいかは、火が消えてから話せばいい。今は、誰を逃がすかだけ」そう言って、トラックを東のゲートへ走らせた。ガルちゃんは振り返った。群れの長が、まだ動かずにこちらを見ていた。 十五時十六分。ガルちゃんは、群れ全体に聞こえるように地面を後ろ足で打った。カンガルーが危険を知らせるときの合図。どん、どん。「東へ。トラックを追って。川まで止まらない」若いオスたちが、まだ迷っている。そのうちの一頭が、震える声で言った。「でも、長が動いてない。長より先に跳んだら、あとで怒られる」緊張で張りつめた群れの中で、その言葉は妙に間が抜けて響いた。ガルちゃんは、ふっと息を抜いた。「大丈夫。今日だけは、長より速く跳んでいいって、許可が出てる」「誰の許可」「わたしの」一瞬の沈黙のあと、群れのどこかで、子供のカンガルーがくすくす笑った。それが合図になったように、若いオスたちの肩から力が抜けた。最初の一頭が東へ跳び、次の一頭が続いた。そして、群れの長がゆっくりと向きを変えた。片耳の欠けた頭が、ガルちゃんの横を通り過ぎるとき、ほんの少しだけ下がった。礼だったのか、ただ煙を避けただけなのか、今でもわからない。群れが、東へ流れはじめた。ガルちゃんは最後尾についた。ポケットの中で、お兄ちゃんが小さく鳴いた。 十五時十八分。東のゲートまで、あと半分というところで、ガルちゃんは足を止めた。草むらの陰に、年寄りのメスが一頭、うずくまっていた。去年、後ろ足を痛めたエルシーおばあちゃん。跳ぼうとして、跳べずにいる。煙の向こうで、西の林の上の空が、赤く光りはじめていた。風が、回りはじめている。ガルちゃんは、エルシーの前でしゃがんだ。ポケットには、お兄ちゃんがいる。エルシーを支えて歩けば、間に合わないかもしれない。置いていけば、自分とお兄ちゃんは間に合う。考えている時間は、たぶん十秒もなかった。「行きなさい」エルシーが言った。「あんたには、守るものがあるだろう」ガルちゃんは首を振らなかった。頷きもしなかった。代わりに、空を見て、耳を澄ませた。エンジンの音。マギーのトラックが、ゲートを開け終えて、こちらへ戻ってくる音。ガルちゃんは立ち上がり、トラックに向かって跳んだ。荷台の横で、何度も何度も地面を打った。どん、どん、どん。マギーが窓から顔を出し、草むらを見て、すぐに理解した。「――エルシー。わかった。あの子は、あたしが運ぶ」 十五時二十二分。群れは川べりの防火帯にたどり着いた。黒く焼けた草地。前の日にマギーたちがわざと燃やしておいた場所で、もう燃えるものは何も残っていない。四十頭が、浅い川の水に足をひたして身を寄せ合った。少し遅れて、マギーのトラックが着いた。荷台には、毛布にくるまれたエルシーが乗っていた。マギーが荷台から降ろすと、エルシーは三本の足でよろよろと水辺まで歩き、ガルちゃんの隣にうずくまった。何も言わなかった。言わなくてよかった。西の空が、真っ赤に燃え上がった。さっきまで群れが向かおうとしていた林が、炎の壁になっていた。風は、マギーの無線が言った通りに回っていた。群れの長が、その炎を長いあいだ見つめていた。それから、ガルちゃんのほうを向いて、何も言わずに、また炎へ目を戻した。マギーが、ガルちゃんの横にしゃがみ込んだ。煤だらけの顔で、彼女は鼻歌を歌いはじめた。いつも通り、少しだけ音程の外れた鼻歌だった。ガルちゃんは、そのとき初めて気づいた。マギーの手が、ずっと震えていたことに。震えたままで、彼女は一度も、判断を間違えなかったのだ。 「それで、おしまい」ガルちゃんが言うと、ベビーはポケットの縁にあごを乗せたまま、しばらく黙っていた。「お兄ちゃんは」「元気。今もオーストラリアにいる。エルシーおばあちゃんは、あの次の春まで生きた」「マギーは」「保護区を建て直して、今も鼻歌を歌ってる。音程は、まだ外れてる」ベビーが、くすっと笑った。どんなときでも正しく動けるひとは、そう多くない。何を聞き、何を信じ、誰を連れて逃げるのか。手が震えていても声を荒げず、いちばん怖いときに、ちょっとした冗談で群れの肩をほどく。そのさじ加減も含めて、マギーには確かな判断力があった。ガルちゃんが生成AIを学んでいるのも、本当はあの日のせいかもしれない。毎朝、柵の陰で無線を聞いていたように。わからない言葉を、わかろうとし続けること。それが、いざという十分間に、誰かを生かすことがあるから。「ママ」「なあに」「ぼくも、十分間のリーダー、できるかな」ガルちゃんはベビーの頭をなでた。この子がこれから、どんなふうに考え、どんなふうに選ぶようになるのか。それを見届けられることが、何より楽しみだった。「できるよ。そのときは、ちゃんと許可を出してあげる」