私は未来ファンドで、子供の起業家を担当している。十歳から十五歳までの、まだ名刺の角も丸い経営者たちに会い、話を聞き、出資するかどうかを決める。その仕事を始めてから、面談のたびにノートをつけるようになった。会社の書式とは別の、私だけの記録だ。数字ではなく、その子が何を見て、どう迷い、どう決めたかを書き留める。ほとんどの記録は二ページで終わる。だが、一冊まるごと使ってしまった子がひとりいる。その年の春、長崎は朝から細い雨だった。浜町のアーケードを抜け、坂をひとつ上がったところにある古い貸し会議室で、私は三件目の面談を待っていた。窓の外では、石畳を濡らした雨が段々に流れ落ち、港のほうへ消えていく。手元の資料には、事業名『トイカケ』、代表者十歳、とだけあった。写真もない。事業計画書は一枚。余白が多すぎて、最初は印刷の失敗かと思ったほどだ。私はその白い余白を、しばらく黙って眺めていた。約束の時刻ちょうどに、扉が二回、短く叩かれた。 入ってきたのは、紺色のレインコートを着た少女だった。フードを外すと、肩までの髪が少し跳ねている。背中のリュックからノートパソコンを取り出し、机に置き、それから初めてこちらを見た。「コールです。十分ください。九分で終わらせます」挨拶はそれだけだった。私の隣に座った審査役の二人が、わずかに顔を見合わせる。子供の面談では、まず緊張をほぐすところから始めるのが普通だ。好きな食べ物を聞き、学校の話を聞き、それから本題に入る。だが彼女は、その手順を必要としていなかった。「どうぞ」と私が言うと、コールはうなずき、画面をこちらに向けた。そこに映っていたのは、白い背景に一行だけの入力欄だった。ロゴもない。説明もない。「これが全部です」と彼女は言った。「子供が『わからない』と書くと、AIが『何がわからないのか』を一緒に探します。答えは出しません」審査役のひとりが眉を上げた。「答えを出さない生成AI、ということ?」「はい」短い返事が、雨音の中でよく通った。 「答えを配るのは簡単です」とコールは続けた。「今のAIなら、算数の宿題も読書感想文も、一瞬で終わります。でもそうすると、子供は質問するのをやめます。わからないことを、わからないまま置いていくようになる」彼女はキーボードに指を置き、入力欄に打ち込んだ。『わりざんがわからない』。画面の向こうでAIが返す。『どこから、わからなくなった? ひとつずつ、分けてみようか』。続けて彼女は『ぜんぶ』と打つ。AIは『じゃあ、クッキーが六枚あって、三人で分けるところから』と返した。「問いを小さくするのが仕事です」とコールは言った。「大人は、わからないことを分解できます。子供はまだ、それがうまくない。だから手伝う。答えまで連れていくんじゃなくて、自分で歩ける距離まで、問いを縮める」私はノートに『問いを縮める』と書いた。説明に無駄がなかった。形容詞をほとんど使わない。自分の製品を褒める言葉が、ひとつも出てこない。それでいて、彼女が何を大事にしているかは、はっきりと伝わってきた。九分のうち、まだ三分しか経っていなかった。 「お金の話をしても?」と審査役の男性が言った。年長の、穏やかだが容赦のない人だ。「親は、答えを出してくれるAIのほうにお金を払うと思う。宿題が早く終わるからね。きみのは、時間がかかるほうのAIだ」コールは少しも慌てなかった。「はい。だから、親には売りません。学童と、塾と、図書館に売ります。『子供が自分で考えた時間』を記録して、大人に見せます」「時間を売る?」「考えた跡を売ります」そのとき、部屋の隅で小さな物音がした。見ると、窓際の椅子に、いつの間にかカンガルーが座っていた。おなかのポケットから、まだ小さなベビーが顔を出している。審査役の二人が固まった。コールは振り返りもせずに言った。「ガルちゃんです。相棒です。生成AIの勉強中で、トイカケの最初のテストユーザーです」ガルちゃんは申し訳なさそうに片手を上げた。「傘立てが満員だったの。ここで乾かしてもいい?」私は笑うのをこらえて、どうぞ、と答えた。長崎の坂の上では、ときどきこういうことが起こる。 空気が変わったのは、七分を過ぎたころだった。もうひとりの審査役、若い投資担当の女性が、軽い口調で切り出した。「ひとつ提案。答えを出すモードを、有料オプションでつければいい。基本は問いを縮める。でも課金すれば、宿題を全部やってくれる。それなら親も払うし、数字はすぐ伸びる」悪くない提案だった。少なくとも、事業としては。私も、同じことを考えなかったと言えば嘘になる。コールは数秒、黙った。窓の外を見るでもなく、画面を見るでもなく、ただまっすぐ前を見ていた。「売れると思います」と彼女は言った。「たぶん、すごく売れます」「じゃあ――」「でも、作りません」声は大きくなかった。反論の調子でもなかった。決まっていることを、決まっている通りに述べただけだった。「それを作ったら、トイカケは、子供から質問を取り上げる道具になります。お金を払った家の子ほど、考えなくなる。それは、私がやりたいことの逆です」部屋がしんとした。ガルちゃんのポケットの中で、ベビーが小さく身じろぎした。 「頑固だね」と、年長の審査役が言った。責める口調ではなかった。確かめるような声だった。コールは少しだけ首をかしげた。「よく言われます。祖母には、『呼べば返事はするとに、言うことは聞かん』と言われます」一拍おいて、部屋の空気がほどけた。審査役の女性が吹き出し、年長の男性も口元を押さえた。ガルちゃんが「それ、わたしも言われる」とつぶやき、さらに笑いが広がる。「コールというのは、そこから?」と私が尋ねると、彼女はうなずいた。「小さいころ、名前を呼ばれると、どこにいてもすぐ『はい』と返事をしたそうです。だから祖母が、コール、と。呼べば返ってくるから」「でも、言うことは聞かない」「聞くべきことは聞きます」間髪を入れずにそう返され、今度は私が笑う番だった。ジョークの置き場所が絶妙だった。張りつめた糸を、切らずに、ちょうどよく緩める。そのあとで彼女は笑顔を引っこめ、時計を見た。「あと一分です。質問があれば」 最後の一分で、私はひとつだけ聞いた。「もしこの面談で出資が決まらなかったら、どうする?」コールは即答した。「続けます。お金があれば速く進みます。なければ、ゆっくり進みます。方向は変わりません」九分ちょうどで、彼女はノートパソコンを閉じた。立ち上がり、一礼し、ガルちゃんに目で合図をする。ガルちゃんは慌ててポケットのベビーを抱え直し、ぬれた尻尾を引きずりながら後に続いた。扉が閉まったあと、しばらく誰も口をきかなかった。「出します」と最初に言ったのは、意外にも、答えを出すモードを提案した女性だった。「断られたのに?」と私が聞くと、彼女は肩をすくめた。「断り方が、正しかったので」年長の男性も黙ってうなずいた。審査は五分で終わった。会議室を出ると、雨は上がっていた。坂の下のほうに、紺色のレインコートと、跳ねるように歩くカンガルーの背中が小さく見えた。二人は何か言い合いながら、石畳の段を一段ずつ降りていった。 その夜、宿のテーブルでノートを開いた。いつもなら二ページで終わる記録が、なかなか終わらなかった。書いたことは多くない。事業の中身でも、売上の見込みでもなかった。人が正しくあり続けるのは難しい。正しいことを知っているだけなら、大人なら誰でもできる。難しいのは、それを口にする場面を選び、言い方を選び、相手の顔をつぶさずに断り、張りつめた場をひとつの冗談でほどき、そしてまた本題へ戻ってくることだ。何を考え、どう決め、どう振る舞うか。その全部がひと続きになっている人間に、私はめったに会わない。十歳の少女は、それを九分間でやってのけた。私は最後の行にこう書いた。――コールは、正しいことを、正しいやり方で選べる子だった。だから私は、この記録を続けることにした。彼女がどこへ向かうのか、どんな大人になるのかを、見届けたいと思ったからだ。窓の外では、港の灯りが坂の下で揺れていた。ノートの表紙に、私は初めて名前を書いた。『コールの記録』。