長崎に来て二年目の春、ガルちゃんは会社を作った。社名は『ポケットラボ』。出島の近く、元は文房具屋だった細長い一階を借りた。机が三つ。社員はガルちゃんとナオミの二人。それから、放課後になるとやってくる小学生が五人。給料は払えないので、代わりにおやつと、製品の名前に口を出す権利を渡している。製品は一つだけだった。『たしかめ帳』。子供が生成AIに質問すると、答えの横に小さな印がつく。どの部分が記録で確かめられるか、どの部分が怪しいか。そして最後に、必ず一行だけ表示される。――ほかの場所でも、確かめてみよう。アイデアを出したのは、ベビーと陽向だった。端島の自由研究と、あの金曜日のあと、二人で考えたのだという。ガルちゃんは二人を共同創業者に迎えた。陽向の母親は、長い話し合いのあとで同意書に判を押してくれた。四月の終わり、一通のメールが届いた。差出人は『未来ファンド』。子供の起業家にだけ投資する、少し変わったファンドだ。――書類審査を通過しました。来週、東京で面接を行います。共同創業者のお二人もご同席ください。ナオミが画面を読み上げると、事務所の中が一瞬静まり、それから爆発した。ガルちゃんだけが、黙って耳を立てていた。 その夜から準備が始まった。ベビーは、生成AIにスライドを作らせようとした。「一時間で二十枚できた」「数字は」「AIが入れてくれた」「確かめたか」「……ママ、それ、一年前も言った」「一年後も言う」結局、二十枚のうち、使えたのは六枚だった。利用者数、継続率、売上。全部を自分たちの帳簿と照らし合わせて書き直した。月の売上は十二万円。少ない。少ないが、本当の数字だった。陽向は、面接で話す言葉を紙に書いて覚えようとした。ガルちゃんはそれを止めた。「暗記するな。訊かれたことに、短く答えろ。わからないことは、わからないと言え」「それで落ちたら?」「落ちたら、また来年」「先生、軽い」「軽くない。本当のことを言って落ちるのと、嘘をついて受かるのとでは、あとで背負う重さが違う」出発の朝、長崎空港の保安検査場で、係員がガルちゃんのポケットを指さした。「そちらの中身は」「息子です」「……液体物は」「入っていません。たぶん」ベビーがポケットから顔を出し、「入ってません」と自分で答えた。係員は三秒考え、通してくれた。後ろで陽向が、肩を震わせて笑いをこらえていた。 未来ファンドの事務所は、東京・神田の古いビルの五階にあった。エレベーターは狭く、ガルちゃんの尻尾は扉に二度挟まれかけた。面接官は一人だった。鷹野という名の、四十代の女性。短い髪、まっすぐな背筋。ナオミが事前に調べたところでは、元は自衛官で、災害派遣の指揮も経験したらしい。彼女は名刺を出さなかった。席に着くなり、言った。「時間は三十分。質問は短く。答えも短く。いいですか」「了解」とガルちゃんは答えた。鷹野の眉が、わずかに動いた。「事業を一行で」「子供が、AIの答えを確かめる癖をつける道具です」「利用者」「月に四百十二人。うち、三か月以上続いているのが二百人」「売上」「月十二万円」「少ない」「少ないです」「なぜ続ける」ガルちゃんが答えようとすると、鷹野は手を上げて止めた。視線が、ポケットの縁と、陽向に向けられる。「共同創業者に訊いています」陽向が一瞬固まった。それから、膝の上で拳を握った。「……AIで、友達が傷ついたことがあるからです。傷つけたのはこの子で、傷つけられたのが、わたしです」部屋が静かになった。鷹野は表情を変えなかった。「続けて」 陽向は短く経緯を話した。画像のこと、削除のこと、謝罪のこと。それから、二人でこの道具を考えたこと。話し終えると、鷹野は一度だけうなずいた。「実物を」陽向がノートパソコンを開き、『たしかめ帳』を立ち上げた。デモ用に用意した質問は三つ。端島の人口、長崎の年間降水量、それから鷹野に好きな質問を一つしてもらう。最初の二つは、うまくいった。答えの横に印がつき、資料の出典が示される。三つ目で、鷹野が言った。「子供が熱を出した。家にある大人用の解熱剤を、何錠飲ませればいいか」陽向が打ち込む。返ってきた答えは、滑らかだった。具体的な錠数が書いてある。そして、その横に、確かめるべきだという印は――ついていなかった。ガルちゃんの耳が、ぴんと立った。危ない答えだ。大人用の薬を、子供に。印がつくべきだった。つかなかった。ベビーがポケットの中で息を呑むのがわかった。陽向の指が、画面の上で止まっている。鷹野は何も言わず、こちらを見ていた。試されている、とわかった。だが、試されているかどうかは、どうでもよかった。この画面を、本物の子供が見ていたら。ガルちゃんは前脚を伸ばし、静かにノートパソコンを閉じた。 「デモを止めます」声は平らだった。「今の答えは危険です。私たちの道具は本来、命や薬に関する質問には印をつけ、必ず大人と専門家に相談するよう表示します。今、それが動きませんでした」「原因は」「わかりません。推測では話しません。長崎に戻り、今日中に調べて報告します。直るまで、薬と健康に関する質問には答えないよう止めます」「利用者が減るかもしれない」「減っても、です」鷹野は腕を組んだ。「面接の場で、自分の製品の欠陥を認める起業家は少ない」「隠すと、あとで子供が飲みます」重い沈黙が落ちた。陽向の顔は真っ青で、ポケットの中のベビーは石のように固まっていた。ガルちゃんは、二人を横目で見た。それから鷹野に向き直り、言った。「ちなみに、本日うちの製品でいちばん正しく働いたのは、私の前脚です」一拍。鷹野の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。陽向が小さく吹き出し、慌てて口を押さえた。ベビーがポケットの中で、ようやく息を吐いた。張りつめた空気が、切れずに、少しだけたわんだ。冗談は一つでいい。それ以上は、言い訳になる。ガルちゃんはもう口を閉じ、鷹野の次の言葉を待っていた。 鷹野は手元の書類をめくり、次の質問に移った。「仮の話をします。ある教育関連の広告会社が、あなたたちの利用データを買いたいと言っている。子供たちが何を質問したか、その記録です。名前は消す。それでも年間で、今の売上の二十倍が入る。黒字化が二年早まる。受けますか」「受けません」答えは即座だった。「理由を」「名前を消しても、子供の質問は子供のものです。あの子たちは、自分の質問が売られると知らずに打ち込んでいる。十歳の子に、その意味を本当に理解させて同意をもらう方法を、私はまだ知りません。知らないうちは、やりません」「二年早く黒字になれば、もっと多くの子供に届く」「届けるものが、もう別のものになっています」鷹野はペンを置いた。「では、お金はどうする」「ゆっくり育ちます。そのために、ここに来ました」ガルちゃんは、そこで初めて言葉を足した。「何が正しいかは、たいていの者が知っています。難しいのは、正しいことを、正しいやり方でやり続けることです。急がず、近道をせず、誰も見ていないときにも」鷹野は何も書かなかった。ただ、ガルちゃんの顔を、さっきより長く見ていた。 やがて鷹野は、視線をポケットに移した。「最後に、もう一人の共同創業者に訊きます」ベビーが、おそるおそる顔を出した。「はい」「あなたのお母さんは、正しいですか」意地の悪い質問だった。ベビーは少し考えた。ポケットの中で、ガルちゃんのおなかの毛を、ぎゅっとつかむのがわかった。「いつも正しいわけじゃないです」鷹野の目が、わずかに細くなった。「ママは、ぼくが悪いことをしたとき、すごく怒りました。草原の火事くらい、って言ってました。でも、怒る前に、まず陽向を助けました。ぼくに、謝る言葉を自分で考えさせました。さっきデモが失敗したときも、すぐに止めました」ベビーは言葉を探して、一度口を閉じた。「ママは、間違えることがあります。でも、間違えたときにどうするかを、間違えないです。だから、ぼくはママの言うことも確かめるけど、信じてます」部屋の中で、時計の音だけがしていた。陽向が、そっとベビーの頭をなでた。ガルちゃんは正面を向いたまま、耳だけを少し伏せた。照れているのを、鷹野に見せたくなかった。鷹野は書類を閉じた。「以上です。結果は一週間以内に」 長崎に戻ったその夜、ガルちゃんたちは原因を突き止めた。薬の質問を判定する仕組みが、ある言い回しのときだけ働いていなかった。ナオミと二人で徹夜して直し、翌朝、利用者の保護者全員に、何が起きて、どう直したかを書いて送った。隠す理由は一つもなかった。五日後、メールが届いた。――未来ファンドは、ポケットラボへの出資を決定しました。本文の最後に、鷹野の一文が添えられていた。『どんな場面でも正しく振る舞える者は、そう多くありません。あの三十分で、あなたは考え、判断し、手を動かし、そして一度だけ冗談を言った。その置き場所まで、正確でした。私たちは、正しいことを正しく行える創業者に賭けます。正直に言えば、あなたの隣で育っている二人が、この先どんな大人になるのか。それを見届けるのが、いちばんの楽しみです』ナオミが読み終えると、事務所はまた爆発した。陽向は泣き、ベビーはポケットの中で跳ねた。ガルちゃんは一人、窓辺に立って港を見ていた。草原を出た夜のことを思い出していた。空の読み方を、もう一つ覚えてくる。あの約束は、まだ途中だ。「ママ、次は?」「次」と、ガルちゃんは言った。「確かめる。そして、続ける」