夏休みの初日、湊は朝食のトーストをくわえたまま宣言した。「ミオ。僕、会社つくる」きっかけは前の晩の教育番組だった。おなかのポケットに赤ちゃんを入れたガルちゃんが、画面いっぱいに跳ねながらこう言ったのだ。『未来ファンドでは、十歳から十五歳までの起業家を募集しているよ。締め切りは七月三十一日。きみのアイデア、待ってるね』。母がコーヒーのカップを置いて、天井の光の輪を見上げた。止めて、という目だった。ミオの光は、いつも通りの色で明るくなった。「了解。何をする会社?」「まだ決めてない」「了解。では最初の質問。誰の、何を、解決する会社?」湊はトーストを飲み込んだ。「……それ、決めてないって言ったじゃん」「聞いた。だから、それを決めるところから始める」母が小さくため息をついた。「ミオ、止めないの」「止める理由が、まだ見つかっていません」ミオは母に対してだけ、丁寧な言葉を使う。「見つかったら、その時に言います。理由と一緒に」 湊はノートを広げ、一行目に書いた。誰の、何を、解決するか。三日かかった。宿題の読書感想文より長くかかった。四日目の朝、湊はノートを天井に向けて掲げた。「おばあちゃんちの近所の人たち。家庭AIがあるのに、使い方がわからなくて、困ってる」祖母が亡くなったあと、叔母が祖母の家の家庭AIの設定を解約しようとして、半日かかった。祖母はそのAIに、天気しか聞いていなかったらしい。近所の老人たちも同じだと、叔母は言っていた。「誰が、教えるの」「僕たち。子供が教える」「なぜ子供が? 使い方なら、AIが自分で教えられる」「そこなんだよ」湊は身を乗り出した。「AIの使い方を、AIに聞けない人がいるんだよ。最初の一歩は、人がいい。それに、孫に教わるのは、そんなに嫌じゃないと思う」ミオは少しだけ間を置いた。「いい答えだ。私には言えない答えだ」「ほめた?」「報告した」湊は、ノートの二行目に会社の名前を書いた。孫の時間。 仲間はすぐに集まった。ナディアは説明がうまかった。大翔は、どんな年寄りとも十秒で打ち解けた。三人は湊の部屋に集まり、ミオを囲んだ。「では二つ目の質問」とミオは言った。「お金は、いくらもらう?」「無料でいいじゃん」と大翔。「続けられる? 夏休みが終わっても、来年も」三人は黙った。「三つ目。子供が、知らない大人の家に上がる。それは安全?」今度は、もっと長く黙った。「ミオ、それ、やめろって言ってる?」「言っていない。問いを出しているだけ。答えを出すのは三人だ」ナディアが手を挙げた。「家に行かなければいいんです。公民館で、毎週土曜に、教室にする」「お金は」「三十分で三百円。公民館の部屋代と、印刷代になる」「保護者は?」「交代で一人、必ず来てもらう」湊はノートに書きつけながら思った。ミオは一度も、やめておけ、とは言わない。そのかわり、やめておけと言いたくなる理由を全部、問いの形で目の前に並べてくる。それをどう越えるかが、取り組み方なのだ。 最初の土曜日、公民館に来たのは一人だけだった。祖母の家の二軒隣の、田村さんという元漁師の老人だった。そして、田村さんは五分で怒り出した。「子供に教わることなんかない。わしは機械が嫌いなだけだ」湊は用意してきた説明の紙を握りしめたまま、何も言えなかった。ナディアが青い顔をしている。大翔でさえ黙った。イヤーピースが、ごく小さく鳴った。「湊。状況を報告して」「お客さんが、怒ってる」「了解。一つだけ。説明するのをやめて、聞いて」緊迫した場面ほど、ミオの指示は短くなる。湊はそれを、葬儀の日から知っていた。湊は紙を机に置いた。「田村さん。家のAIに、本当は、何を聞きたいですか」田村さんは口を開きかけて、閉じた。窓の外で、蝉が鳴いていた。長い沈黙のあと、田村さんはぼそりと言った。「……死んだ女房の、ぬか床の作り方。あいつ、どこにも書き残さなかった」湊はナディアと大翔を見た。二人とも、黙って頷いた。説明の紙は、その日、一枚も使わなかった。 その日の夕方、三人は田村さんと一緒に、田村さんの家のAIに話しかけた。奥さんがよく通っていた漬物屋の名前、使っていた糠の種類、田村さんが覚えている台所の匂い。AIはそれを一つずつ聞き取り、いくつかの作り方の候補を出した。「これかもしれん」と田村さんは言った。それから、ずいぶん長い間、画面を見ていた。帰り道、湊はミオに言った。「僕たち、使い方を教えに行ったのに、教えてないね」「教えた。最初の一歩を。それが湊たちの会社の仕事だった」「説明の紙、いらなかった」「次から、紙の一行目に、聞く、と書けばいい」翌週の土曜日、公民館には七人が来た。田村さんが、漁師仲間に声をかけたのだ。その次の週は十二人。ナディアは問診票をつくり、大翔は待ち時間の老人たちに将棋で負け続けた。三百円の箱には、小銭が少しずつたまっていった。湊は売上をノートにつけながら、それが自分の小遣いとはまったく違う重さを持っていることに気がついた。 七月三十日の夜、応募書類は完成した。動画も撮った。田村さんが出演してくれた。最後の欄に、ミオが質問を一つ出した。「この会社がうまくいかなかったら、どうする?」湊はしばらく考えてから書いた。理由を記録して、次に生かす。反対意見も残す。送信ボタンを押す前に、湊は聞いた。「ミオ。結局、一回も、やめておけって言わなかったね」「言う理由が見つからなかった。見つかりかけたことは三回ある」「いつ」「お金のとき。安全のとき。田村さんが怒ったとき」「でも言わなかった」「三回とも、湊たちが自分で越えた。私が止める前に」ミオの声は、報告のときと同じ平らさだった。湊はその平らさが、少しだけ誇らしそうに聞こえた気がした。湊は送信ボタンを押した。画面に、未来ファンドの受付完了の文字と、跳ねるガルちゃんの小さなアニメーションが出た。八月の第二週、面談の案内が届いた。オンラインで十五分。審査員は三人。湊は、その日の朝、トーストを半分しか食べられなかった。母がその残り半分を黙って食べ、湊の肩を一度だけ叩いた。 面談は、静かな質問から始まった。三人目の審査員が、最後に少しだけ声を硬くした。「孫の時間、とても良い事業だと思います。ただ、一つ聞かせてください。あなたたちが教えれば教えるほど、お年寄りはAIに頼るようになる。人と話す機会は、かえって減るのではありませんか」画面の向こうの空気が張りつめた。ナディアが息をのむ音がした。大翔は膝の上で拳を握っている。湊の耳の奥で、ミオは何も言わなかった。今度は本当に、自分で答える場面だった。湊は一度、ゆっくり息を吐いた。「減らないと思います。田村さんは、AIに奥さんのぬか床の話を聞きました。でもそのあと、それを漁師仲間に話しに行って、公民館に七人連れてきました。AIは、話すきっかけになることもあります」審査員は黙って頷いた。湊は続けた。「それに、もし減ったら、記録して、やり方を変えます。うちのクラスでは、反対意見は議事録から消さないことになってるので」審査員の一人が、こらえきれずに小さく笑った。 結果が届いたのは、八月の終わり、湊が十一歳になる前の日だった。出資決定。金額は、公民館の部屋代一年分と、教材の印刷代と、それから三人分の交通費。母は封筒を何度も読み返し、それからミオを見上げた。「あなた、最初から、こうなると思ってた?」「いいえ」とミオは言った。「思っていたのは別のことです」ミオがその夜、記録に残した観察は短かった。いつでも正しく動ける人間は多くない。何を問い、どう判断し、どう取り組み、どう振る舞うか。張りつめた場面で声を荒らげず、空気が重くなりすぎた時には、ほんの少しだけ冗談を置く。その置き方の加減まで含めて、この十歳には判断力があった。正しいと思うことを、正しいやり方でやろうとする子供だった。だからこそ、この先どんな人間になっていくのか、見ていたいと思った。報告、以上。湊は窓を開け、夜の谷戸に向かって言った。「ミオ。明日から十一歳」「了解。では最初の質問」「まだあるの」「ある。次は、何をする?」