十四時三十一分。長崎駅のすぐ裏手にある展示場の多目的ホールでは、三十人の子供たちが長机を囲んでいた。小学四年生、十歳の子ばかりを集めた一日限りのハッカソン。お題は「生成AIで、だれかを助けるアプリを作ろう」。ホワイトボードには付箋が貼られ、タブレットの画面には描きかけのキャラクターが踊っている。運営スタッフの柴田剛は、ホールの後方、非常口の脇に立っていた。四十八歳。二十年あまり陸上自衛隊にいて、三年前に退官した。今は長崎の小さなIT企業で総務をしながら、こうした子供向けイベントの安全管理を任されている。「柴田さん、顔がこわい」先ほど、Bチームの班長の結衣にそう言われた。笑ってみせたら、もっとこわいと言われた。柴田は、ホールの出口を数えるのが癖だった。正面に二つ、後方に一つ、非常口が二つ。階段は東と西。消火器の位置。子供の人数、スタッフの人数。誰も頼んでいないのに、頭の中で何度も確かめてしまう。窓の外では、細い雨が稲佐山を白くぼかしていた。そのとき、足もとから低い唸りが這い上がってきた。 十四時三十二分。床が横に滑った。長机の上のタブレットが一斉に跳ね、天井の照明がばちんと音を立てて消えた。非常灯の緑だけが残る。誰かが悲鳴を上げ、それが三十人分の悲鳴に変わる寸前に、柴田の声がホールを割った。「全員、机の下」大きくはない。だが、よく通る声だった。「頭を守れ。机の脚を握れ。動くな」子供たちが机の下に潜り込む。揺れはまだ続いている。前方では、若い女性スタッフの森下が立ちすくんでいた。「森下、しゃがめ。前列を見ろ」「は、はい」揺れの中で、柴田は時間を数えていた。十秒。二十秒。棚から何かが落ちる音。机の下で、男の子がしゃくり上げはじめる。泣き声は伝染する。一人が泣けば、十人が泣く。柴田はしゃがんだまま、ホール全体に聞こえる声で言った。「いいか。今から全員、ダンゴムシになる。丸くなれ。一番きれいに丸いダンゴムシには、あとでおやつを二倍出す」一瞬、泣き声が止まった。どこかの机の下から、くすっと笑う声がした。「二倍って、ほんと?」「本当だ。審査員は俺だ。丸くなれ」揺れが、ゆっくりと引いていった。 十四時三十三分。揺れが止まった。ホールは薄暗く、雨の音だけが妙に近い。柴田はすぐには立たせなかった。余震の可能性。落下物の確認。「そのまま。顔だけ上げろ。班長、手を挙げろ」暗がりの中で、六本の手が上がった。「班長は自分の班の人数を数えて、報告。Aから」「Aはん、五人、ぜんいんいます」「Bはん、五人、います」結衣の声だった。震えているが、はっきりしていた。C、D、E。そして、Fの班長の声が詰まった。「Fはん……四人です。颯太くんが、いません」柴田の胃が冷たくなった。「最後に見たのは」「トイレ、行くって。地震の、ちょっと前」ホールの外、廊下の突き当たりのトイレ。距離にして四十メートル。柴田は判断を急いだ。ここには二十九人の子供と、スタッフが三人。自分が抜ければ、残りを森下と、受付の年配スタッフの二人で動かすことになる。森下は、まだ顔が真っ白だった。「森下」「はい」「深呼吸を一回。それから俺の目を見ろ」森下が言われた通りにした。「お前が、今からこのホールの指揮官だ」 十四時三十四分。柴田は森下に、手順を三つだけ渡した。「一、余震が来たら机の下。二、俺が戻るか、館内放送があるまでここで待機。三、エレベーターは使わない。復唱」森下が繰り返した。声がまだ上ずっている。柴田はそこで、結衣のほうを見た。机の下から這い出して、班員の肩に手を置いている。「結衣」「はい」「森下さんの副官をやれ。泣いてる子がいたら、隣に座って手を握らせろ。それだけでいい」「わかった」十歳の子に任せる仕事ではない、と頭のどこかで声がした。だが柴田は知っていた。災害の現場で、子供を一番落ち着かせるのは、大人の大声ではなく、同じ背丈の誰かの手だ。十年前、熊本の避難所で見た光景だった。柴田は懐中電灯を取って、廊下へ出た。非常灯の緑が、床に長い影を落としている。天井のパネルが一枚、斜めに垂れていた。その下を避けて走る。トイレのドアの前で、柴田は一度だけ声を落とした。走ってきたことを、子供に悟らせないために。「颯太。柴田だ。いるか」 十四時三十五分。返事はなかった。柴田はドアを開けた。個室の一つが閉まっている。中から、鼻をすする音がした。「颯太。地震は止まった。けがはあるか」「……ない」「よし。ドア、開けられるか」「……開かない」揺れで枠が歪んだのか、鍵が噛んでいる。柴田はドアの上の隙間を確かめた。手は届く。だが、無理にこじれば、木片が子供の上に落ちる。「颯太。今から作戦を言う。鍵を、俺が言う方向に、ゆっくり回せ。ゆっくりだ。ラーメンが伸びるくらいゆっくり」中から、小さな笑い声がした。「ラーメンは、伸びたら、まずいよ」「そうだ。だから今日だけは、伸びてもいい」がちゃり、と音がした。ドアが半分だけ開いた。颯太は便座の上で膝を抱え、ズボンを履いたまま固まっていた。目が真っ赤だった。柴田はしゃがんで、颯太と目の高さを合わせた。「よくここで待った。正しい判断だ」颯太は、何を褒められたのかわからないという顔をした。それでいい、と柴田は思った。正しく動いた子供には、理由はあとで教えればいい。今は、その手を引いて戻ることだけだった。 十四時三十七分。ホールに戻ると、子供たちは机の下で、二人ずつ手を握り合っていた。結衣が、班をまたいで泣いている子の隣に座らせて回ったのだという。森下が駆け寄ってきた。「館内放送、ありました。東階段から屋外の広場へ避難、とのことです」「了解。颯太、F班に戻れ」「Fはん、五人になりました」F班の班長が、泣きそうな声で報告した。柴田は全体を見渡した。「これから外に出る。並び方を言う。班ごとに一列。班長が先頭。最後尾はスタッフ。走らない。しゃべらない。前の人の肩を見る。わかったら、手を挙げろ」三十本の手が挙がった。その中で、ロザリオを握りしめている女の子がいた。浦上の教会に毎週通っているのだと、昼休みに話していた子だ。隣の男の子が、それを不思議そうに見ている。柴田は短く言った。「祈りたい者は、歩きながら祈れ。祈らない者は、前の人の肩を見ろ。どっちも、立派な仕事だ」女の子が、こくりと頷いた。誰かの信じるものを笑わず、押しつけもしない。それは自衛隊で習ったことではなかった。この街で暮らすうちに、覚えたことだった。 十四時三十九分。東階段は暗かった。森下が先頭で懐中電灯を掲げ、柴田は最後尾についた。三十人の足音が、コンクリートの壁に反響する。二階の踊り場で、また床が揺れた。小さな余震。列が止まり、誰かが息を呑む。「止まれ。手すりを握れ。しゃがめ」短い号令に、列全体が同時にしゃがんだ。揺れは数秒で収まった。「立て。前進」誰も泣かなかった。柴田は列の後ろ姿を見ながら、自分が使っている言葉の短さに気づいていた。止まれ。握れ。しゃがめ。前進。かつて部下に向けていた言葉が、今は十歳の子供たちの足を動かしている。短い言葉は、冷たいわけではない。迷う時間を奪わないための、いちばんやさしい形なのだと、柴田は信じていた。十四時四十二分。一階の扉が開き、雨の匂いが流れ込んできた。屋外の広場には、すでに他の来場者が集まっていた。子供たちは班ごとに座り、班長が最後の報告をした。「Aはん、五人」「Bはん、五人。ぜんいん、げんきです」結衣の声は、もう震えていなかった。柴田は腕時計を見た。揺れから、ちょうど十分だった。 その日のハッカソンは中止になり、子供たちは迎えに来た保護者と一人ずつ帰っていった。おやつは約束どおり、全員に二倍配られた。誰が一番丸いダンゴムシだったのか、柴田は最後まで決めなかった。夕方、片付けを終えたホールで、森下が言った。「私、何もできませんでした」「待機を守った。三十人を一人も動かさなかった。それが一番難しい」森下は少し泣いて、それから笑った。二週間後、仕切り直しのハッカソンで、結衣のB班は一つのアプリを発表した。名前は「じゅっぷんかん」。地震のとき、班長が人数を数えて報告するのを、AIが声で手伝ってくれるアプリだった。発表の最後に、結衣は言った。「大人の声が、短いと、こわくないです」会場が笑い、柴田は後ろの壁際で、顔をこわくしないように苦労した。いつ、どんなときでも正しく動ける人間は多くない。怖さの中で何を見て、誰に何を任せ、どこで人を笑わせるのか。あの十分間、あの子はそれを全部、自分の小さな手でやってのけた。正しいことを正しく選べる子供が、あと十年、二十年たったとき、どんな大人になっているのか。柴田は、それを見届けるまで、この仕事を続けようと思った。