秋、トイカケは東京の展示会に出ることになった。有明の巨大な展示場で開かれる、教育とAIの見本市だ。未来ファンドが出資先のために借りた一角に、子供の起業家たちのブースが六つ並ぶ。その中で、コールのブースはいちばん小さかった。机がひとつ、モニターがひとつ、壁に模造紙が一枚。それだけだ。隣のブースでは、十二歳の少年が作ったロボットが、来場者に風船を配っていた。開場前、私は差し入れのおにぎりを持ってブースを回った。コールは模造紙の角をテープで留め直しているところだった。ガルちゃんも一緒だった。今回は正式に『アシスタント』の名札をつけている。ポケットのベビーは、展示場の天井の高さにずっと口を開けていた。「段取りは」と私が聞くと、コールは指を折った。「十時、開場。十一時、メインステージで五分のデモ。午後はブース。十七時、撤収」「緊張は?」「してます。顔に出ないだけです」そう言って、彼女はおにぎりを半分に割り、片方をガルちゃんに渡した。具は梅だった。ガルちゃんはひと口で顔をしかめ、ベビーが笑った。 十一時のメインステージは、思っていたより人が多かった。三百人は入る客席がほぼ埋まり、後ろに立ち見の列ができている。教育委員会の関係者、大手企業の担当者、記者、そして子供連れの家族。司会者がコールの名前を呼ぶと、拍手が起こった。十歳の起業家という肩書きは、それだけで人を集める。コールは壇上に上がり、マイクを両手で持った。「トイカケです。答えを出さないAIです。今から、会場の子供に一人、使ってもらいます」最前列にいた七歳くらいの男の子が、手を挙げて壇上に呼ばれた。大型スクリーンには、ノートパソコンの画面がそのまま映し出されている。男の子が打ち込んだ。『うちゅうは、どこでおわるの?』。会場から笑いが漏れた。AIが返す。『いい問いだね。まず、うちゅうの「はし」って、どんなものだと思う?』。男の子は真剣な顔で考え込み、客席が静かになった。ここまでは、完璧だった。私は袖で、ほっと息をついた。その瞬間、スクリーンが青く光り、画面が切り替わった。 通信が落ちたのだ。会場のネットワークが混み合い、ノートパソコンの接続が切れた。それ自体は、展示会ではよくある事故だ。問題は、その後だった。自動で切り替わった予備の画面に、別の対話ログが表示されていた。開発用に残していたテスト画面が、オフラインのときだけ起動する設定になっていたのだ。そこには、学童の子供の問いが並んでいた。名前は伏せてある。だが、三行目に『おとうさんが、いえにかえってこない』という一文が見えた。三百人の前で。大型スクリーンに。私は凍りついた。袖にいたスタッフも、司会者も、誰も動けなかった。何が起きているのか、まだ理解できていない客席のざわめきが、少しずつ大きくなっていく。動いたのは、コールだった。彼女は一歩でノートパソコンの横に移動し、映像のケーブルを引き抜いた。スクリーンが真っ黒になった。そこまで、たぶん三秒もかかっていない。そして彼女は、マイクを口元に戻し、短く言った。「ガルちゃん、ログ端末、閉じて。電源ごと」「了解」ガルちゃんが舞台袖の予備端末に飛びついた。 「報告」とコールは、マイクを通さずに私を見て言った。私は袖から、できるだけ短く答えた。「会場の回線が落ちた。復旧は未定」「次」「予備の回線はない。スマホのテザリングなら」「使いません」即答だった。「子供のデータを、今、確認していない回線に乗せません」私はうなずくしかなかった。正しい判断だった。だが、それは同時に、残り四分のデモを捨てるということでもあった。客席のざわめきは、もう隠しようもない。最前列の大人たちが顔を見合わせ、記者がペンを動かしている。壇上の男の子は、何が起きたかわからないまま、不安そうにコールを見上げていた。緊迫した状況、という言葉は、このためにあるのだと思った。何を言っても裏目に出そうな空気だった。謝れば、事故を大きく見せる。黙れば、隠したと思われる。続ければ、無理をしていると見える。私なら、たぶん頭が真っ白になって、謝罪の言葉を重ねていた。コールは、マイクを持ち直した。そして、壇上の男の子の目線までしゃがんだ。 「ごめんね。うちのAI、いま、宇宙の端っこを探しに行っちゃった」男の子がきょとんとした。一拍おいて、客席の前のほうで、誰かが小さく笑った。コールは立ち上がり、客席に向き直った。「正直に言います。今、会場の通信が切れて、予備の画面に、テスト用の子供のログが映りました。名前は出ていません。でも、映るべきではないものでした。私の設定ミスです。すぐに消しました」ざわめきが止まった。彼女は一度、言葉を切った。「このあとの四分は、AIなしでやります。トイカケは、もともと、問いを小さくする道具です。機械がなくても、やり方は同じです」それから、また男の子の前にしゃがんだ。「宇宙の端っこって、どんなものだと思う?」男の子は少し考えて、「かべ?」と答えた。「壁なら、その向こうには何がある?」「……もうひとつのうちゅう?」客席から、今度ははっきりした笑い声と、小さな拍手が起こった。笑いの位置が、ちょうどよかった。事故を笑ったのではない。張りつめていたものが、正しい場所でほどけた笑いだった。 四分間、コールは人間だけでデモを続けた。男の子の問いを、ひとつずつ小さくしていく。壁、その向こう、もっと向こう、では『向こう』って何だろう。最後に男の子は言った。「わからんけど、わからんのが、おもしろい」会場が大きく沸いた。コールは男の子と握手をし、マイクを置いた。「以上です。ありがとうございました」降壇まで、ちょうど五分だった。袖に戻ってきた彼女の手が、わずかに震えているのに、私は気づいた。顔には出ていない。だが、ケーブルを握っていた指先が白くなっていた。「よくやった」と私が言うと、彼女は首を振った。「設定を残したのは私です。よくやったのは、片づけだけです」ガルちゃんが予備端末を抱えて戻ってきた。「電源、落としたよ。ログも、外に出てない」「ありがとう」「宇宙の端っこのジョーク、よかったね」「あれは、ジョークじゃなくて時間稼ぎです」コールはそう言って、ようやく少しだけ笑った。「でも、さじ加減は、合ってたと思います」 午後、コールはブースに戻る前に、ひとつだけ仕事をした。映ってしまったログの持ち主である子供の学童に、電話をかけたのだ。名前は誰にも見えていなかった。だが、彼女はそれを理由にしなかった。学童の先生に事実を伝え、保護者への説明を頼み、自分の謝罪の言葉を短く添えた。それから、開発用のテスト画面を、その場で設定ごと削除した。「オフラインのときは、何も映さない」と彼女はノートに書いた。「黒い画面のほうが、まだ正しい」ブースには、午前のステージを見た人たちが列を作っていた。トイカケを試したい家族。取材をしたい記者。そして、大手企業の担当者が数人。そのうちのひとりが、私に名刺を差し出しながら言った。「あの場面で、テザリングを使わなかった理由を聞きました。うちの社員でも、たぶん繋いでいます」「彼女は繋ぎません」と私は答えた。「繋いではいけない理由を、先に考える子なんです」担当者は感心したように何度もうなずき、帰り際にもう一度、ブースの小さな模造紙を振り返った。 撤収を終えたのは十七時ちょうどだった。展示場の外に出ると、東京湾の向こうに夕日が沈みかけていた。コールは岸壁の手すりに寄りかかり、しばらく黙って海を見ていた。ガルちゃんはベンチでベビーをあやしている。「今日のこと、記録に書く?」とコールが聞いた。私のノートのことを、彼女は知っていた。「書くよ」「失敗のところも?」「失敗のところから書く」彼女はうなずいた。「それがいいです」その夜、ホテルの机で私はこう記した。――事故そのものは、彼女の設定ミスだった。だが、事故のあとの三十秒に、私は彼女のすべてを見た気がする。まずケーブルを抜いた。子供の言葉を守るのが最初だった。次に、確かめていない回線を拒んだ。そして、凍りついた三百人の前で、ひとつの冗談を、ちょうどいい重さで置いた。冷静さとユーモアは、ふつうは別の引き出しにしまわれている。彼女はそれを、同じ手で、同じ瞬間に取り出してみせた。最後に、失敗を自分の言葉で認めた。――判断力という言葉を、私はこれまで軽く使いすぎていたのかもしれない。