乾いた風が、ニューサウスウェールズの草原を西から東へ撫でていった。夕方の光は赤く、ユーカリの影は長い。ガルちゃんは丘の上で後ろ脚を踏ん張り、耳を立てたまま地平線を見ていた。おなかのポケットの中で、ベビーがもぞりと動く。「ママ、まだ見張り?」「まだ。寝てていい」「寝られない。おなかすいた」「さっき食べた」「さっきは、さっき」理屈だけは一人前だ、と彼女は思う。群れの長老のバーグが、のそのそと丘を登ってきた。白い毛の混じった大きな雄で、若い頃は三つの谷を跳び越えたと自分で言っている。証人はいない。「報告を」「北の水場、半分まで減った。東の草は先週より短い。煙の匂いは、まだなし」「了解。次の満月まで持つか」「持たせる」バーグは鼻を鳴らし、それから少しだけ笑った。「お前は、言葉が短くていい」「長く話すと、ベビーが起きるので」シングルマザーになって二度目の乾季だった。夫の話はしない。群れの誰も訊かない。訊かないことが、この群れの優しさだった。ガルちゃんは、空の端にかかった薄い雲を見た。雨雲ではない。それでも、いつかは来る。来なければ、来る場所へ行くだけだ。 翌朝、草原の端の未舗装路に、白い四輪駆動車が停まった。国立公園のレンジャー、エイミーだ。群れは彼女を知っている。水桶を運び、怪我をした若い雄の脚に包帯を巻いてくれた人間だ。ガルちゃんは少し距離を取って、車のボンネットに置かれた薄い板を見ていた。タブレットというらしい。エイミーはそれに話しかけ、板は返事をしていた。「この地域の今後十日間の降水確率と、乾燥による火災リスクを要約して」画面に文字が並び、エイミーはうなずいて無線を取った。ガルちゃんは耳をそばだてた。言葉は全部はわからない。けれど、板が地図を描き、北西の谷から南東へ赤い帯を塗ったのは見えた。「ママ、あれ、なに」「わからない。でも、たぶん、考える道具」「カンガルーも使える?」ガルちゃんは答えなかった。代わりに、エイミーが車に戻るまで、ずっと板を見ていた。人間は、空を読むのに空を見ていなかった。何千もの空の記録を、板の中の何かに読ませていた。それが生成AIと呼ばれるものだと、彼女は後で知った。その夜、ガルちゃんは眠れなかった。ポケットの中の寝息を聞きながら、考えた。この子が大人になる頃、草原の外の世界は、あの板で動いているだろう。そのとき、この子は空を見るだけで足りるだろうか。 三日後の昼、煙の匂いが来た。最初に気づいたのは、見張りの若い雌だった。「北西、煙」声が裏返っている。群れがざわめき、何頭かが南へ跳び出しかけた。南は開けた草地で、いちばん走りやすい。ガルちゃんは丘を駆け上がり、風を測った。頬に当たる風は北西から。強い。草は乾ききっている。南へ逃げれば、火は風に乗って追ってくる。開けた草地は、燃えやすい草地でもある。あの赤い帯を思い出した。エイミーの板が塗っていたのは、まさにこの風の通り道だった。「止まれ」大きな声ではなかった。それでも群れは止まった。「南は駄目だ。風下になる。東の川床へ。石が多い。草が少ない」「川は干上がってる」と誰かが言った。「だから行く。燃えるものがない」バーグがガルちゃんを見た。一瞬の沈黙。長老は短く言った。「従え」群れが東へ動き出す。最後尾に回ったガルちゃんの足元で、遅れた子供が転んだ。彼女は首根っこをくわえて立たせ、尻を鼻で押した。「跳べ。泣くのは向こうで」ポケットの中で、ベビーがしがみつく。「ママ、こわい」「こわくていい。ちゃんとつかまってろ」走りながら、彼女は一度も後ろを振り返らなかった。振り返る時間があるなら、前の子の数を数えた。 火は、夕方には南の草地を舐めるように通り過ぎた。川床の石の上で、群れは身を寄せ合って煙の向こうを見ていた。誰も怪我をしなかった。数えて、もう一度数えて、三度目でようやくガルちゃんは息を吐いた。バーグが隣に座った。「なぜ、川床だと」「人間の板が、赤く塗っていたので」「板?」「空を読む板です」長老はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。「わしは五十年、空を見てきた。それでも今日、南へ行けと言いかけた」「でも、言わなかった」「お前が先に言ったからな」重い空気が残っていた。子供たちは泣き疲れて黙り込み、若い雄は焦げた尻尾の先を何度も気にしている。ガルちゃんはその尻尾に目をやった。「その尻尾、ちょっと焦げて、前よりかっこいい」一拍置いて、誰かが吹き出した。それが伝染して、石の上に小さな笑いが広がった。尻尾の持ち主も、照れたように笑った。バーグも喉の奥で笑った。冗談は、多すぎれば軽くなる。少なすぎれば、恐怖が居座る。いまは、この一言だけでいい。そのさじ加減を、ガルちゃんは誰に教わったわけでもなかった。夜、ポケットの中から小さな声がした。「ママ、あの板、ほしい」「板より、板の使い方がほしい」「どこで習えるの」ガルちゃんは、星の多い空を見上げた。 翌週、エイミーがまた来た。焼け跡を調べ、群れの数を数え、驚いたようにメモを取った。ガルちゃんは初めて、自分から車に近づいた。エイミーは少し後ずさりしたが、逃げなかった。ガルちゃんは前脚で、ボンネットの上のタブレットを指した。それから、自分の胸を指した。エイミーは長いこと彼女を見ていた。「……習いたいの?」ガルちゃんはうなずいた。人間とカンガルーの間に、それ以上の言葉はいらなかった。エイミーはタブレットに話しかけ、画面を見せてくれた。地図の上、海を北へずっと越えた先に、細長い島国があった。その西の端、入り組んだ海岸線の街に、印がついている。「長崎。坂の街。昔から、海の向こうのものを最初に受け入れてきた港。いま、子供たちと一緒に生成AIを学ぶ場所が育ってる。私の妹がそこで働いてるの」その夜、ガルちゃんはバーグに告げた。「群れを出ます」「理由は」「この子の未来のために。空の読み方を、もう一つ覚えてきます」長老は目を閉じ、長いこと考えていた。「戻ってくるか」「わかりません」「正直でいい」バーグは立ち上がり、背を向けた。「行け。見張りの代わりは、わしがやる。久しぶりにな」その背中が、少しだけ丸く見えた。 シドニーの港は、草原の千倍うるさかった。エイミーが話をつけてくれた貨物船は、小麦と羊毛を積んで北へ向かう。船長は髭の濃い男で、ガルちゃんを見るなり腕を組んだ。「密航は困る」密航ではありません、とガルちゃんは言わなかった。言葉が通じないからだ。代わりに、甲板に転がっていたロープの束を跳び越え、きちんと巻き直して置いた。次に、厨房の前に積まれた芋の袋を、ポケットを使わずに二つ運んだ。ポケットはベビー専用だ。船長は眉を上げた。「……働く気か」ガルちゃんはうなずいた。ただで乗るつもりはなかった。この子に最初に見せる海の景色を、ずるで手に入れたものにはしたくなかった。それが、彼女の倫理観のいちばん古い層だった。航海は十二日。昼は甲板を掃き、夜は厨房で皿を拭いた。船員たちは最初こそ遠巻きにしていたが、三日目には彼女に『チーフ』とあだ名をつけた。尻尾で扉を押さえながら両手で皿を運ぶ姿が、誰より手際よかったからだ。赤道を越えた夜、ベビーがポケットから顔を出して星を見た。「ママ、星が違う」「南十字星が沈んだ。ここは北の空だ」「さみしい?」「少し。でも、新しい星も覚えられる」 十二日目の朝、霧の向こうに、緑の山が折り重なって見えた。湾は深く、細く、山がそのまま海に落ちている。斜面にびっしりと家が貼りつき、その間を細い坂道が縫っていた。長崎だった。船が女神大橋の下をくぐるとき、ベビーがポケットの縁から身を乗り出した。「ママ、家が山に登ってる」「坂の街だと聞いた」「跳びやすそう」「たぶん、跳ぶしかない」港に降りると、潮の匂いに、どこか甘い香りが混じっていた。カステラ、とあとで教わった。エイミーの妹、ナオミが迎えに来ていた。日本で暮らして十年になるという彼女は、ガルちゃんを見て一度だけ目を丸くし、それから普通に笑った。「姉から聞いてる。カンガルーが生成AIを学びに来るって。冗談だと思ってた」冗談では、ありません。ガルちゃんは心の中で言った。ナオミはその顔を見て、また笑った。「うん。冗談じゃない顔だね」坂を上る。石畳、教会の尖塔、寺の瓦屋根、その隣の小さな神社の鳥居。違う祈りの形が、一つの坂に肩を並べていた。ガルちゃんはそれを、いい景色だと思った。誰も、誰かの祈りを押しのけていない。草原の長老が雨の前に空へ頭を下げていたのを、ふと思い出した。 ナオミが用意してくれたのは、坂の途中にある古い木造アパートの一室だった。窓を開けると、港が見える。夜になると、対岸の造船所の灯りが水面に長く揺れた。最初の夜、ガルちゃんは借りたノートパソコンの前に座った。画面には、白い入力欄が一つだけ。カーソルが点滅している。何を訊けばいいのか、わからなかった。草原では、訊く前に体が動いた。ここでは、問いを立てることから始めなければならない。ポケットの中から、ベビーが言った。「なんでも訊いていいんだって」「なんでも、は難しい」「じゃあ、いちばん知りたいこと」ガルちゃんは少し考えた。それから前脚の爪で、一文字ずつ、ゆっくりと打った。――子供の未来のために、母親ができることは何ですか。返ってきた答えは長く、丁寧で、どこか誰にでも当てはまるものだった。彼女は最後まで読み、うなずき、画面を閉じた。「答え、よかった?」「半分。残りの半分は、自分で考える」「どうやって」「仕事にする」ベビーが首をかしげる気配がした。ガルちゃんは窓の外の灯りを見た。学ぶだけでは足りない。学んだことを、この子と同じくらいの子供たちに手渡せる形にする。それはたぶん、人間の言葉で起業と呼ぶのだろう。港の灯りが、一つ、また一つと消えていった。