六月の終わり、鎌倉は三日続けて雨だった。洋館の二階、未来ファンド審査室の窓ガラスを、細い雨粒が斜めに伝っていく。ガルちゃんは議長席の横で、記録用のタブレットとは別に、表紙の擦り切れた小さなノートを抱えていた。夜ごとに続けている生成AIの勉強ノートだ。仕組みを覚えるたびに図を描き、分からない言葉には赤い丸をつける。ポケットの中では、ベビーが雨音を子守唄にして眠っていた。「今日の応募者は一名です」とガルちゃんが告げる。「葛西蓮、十一歳。東京・月島在住。事業は、生成AIで作る『その子だけの絵本』。注文した家の子供の名前と好きなものを聞いて、物語と挿絵をAIで作り、一冊ずつ製本して届けます。三か月で注文は四十件」佐伯ミナトが、めずらしく自分からノートPCの画面を皆に向けた。「応募書類に、全注文の生成ログが添付されています。使った指示文、つまりプロンプトが全部」波多野宗一郎が眉を上げる。「全部」「全部です。募集要項に『使った道具は隠さず見せること』と書いたのは、うちのほうですから」霧島凛は黙って書類をめくっていた。 葛西蓮は、自分で製本した見本の絵本を三冊、胸に抱えて入ってきた。背は高くないが、声がよく通る。「主人公は、注文した家の子です。名前も、飼っている犬も、好きな食べ物も、物語に出てきます」見本の一冊は、ハムスターと一緒に月まで餅つきに行く女の子の話だった。淡い水彩のような挿絵で、輪郭がやわらかく、どのページにも小さな星が散っている。円城慈道が一冊を手に取り、ゆっくりページをめくった。「よくできている」「ありがとうございます」「物語も、あなたが」「骨組みはぼくが考えて、文章はAIと相談して直します。絵はAIです。でも、三十回くらい作り直させて、一番いいのを選びます」波多野が聞いた。「お客さんは、どうやって集めた」「最初は、いとこの家と、友だちの家です。それから、お母さんたちのグループで広まりました」「値段は」「一冊二千八百円です」受け答えに淀みはなかった。佐伯は質問をせず、ずっと画面のログを下へ下へとたどっている。ふと、その指が止まった。ガルちゃんは、佐伯の表情がわずかに曇ったのを見逃さなかった。霧島が言った。「十分休憩。応募者は控室へ」 扉が閉まると、佐伯は画面を拡大した。「四十件のうち、三十件のプロンプトに同じ言葉が入っています。『森下ほたる風の水彩で』」波多野が首をかしげる。「誰だ」「絵本作家です。現役で、十年以上描いている。あの淡い水彩と、星を散らす描き方は、彼女の作風そのものです」部屋の空気が一段重くなった。佐伯は言葉を選びながら続けた。「技術的に言うと、作風そのものが直ちに権利で守られるとは限りません。ただ、特定の作品に似すぎれば話は別ですし、何より、生きている作家の名前を指示に入れて、似た絵を作って売っている。法律の線がどこに引かれるかは、いまも議論が続いている。でも、法律の線と、倫理の線は、同じ場所には引かれていない」円城が見本の絵本を閉じ、表紙を指でなぞった。ガルちゃんは、自分の勉強ノートを強く抱えた。夜中に赤い丸をつけた言葉の一つが、まさにこれだった。学習、模倣、敬意。どれも辞書を引けば意味は分かる。けれど、その境目に立ったとき人がどう判断するかは、どこにも書いていなかった。霧島は、相変わらず何も言わない。 最初に結論を出したのは波多野だった。「見送るべきだ。このファンドは子供の挑戦を応援する場所だが、同時に、世間から見られている場所でもある。作家の名前で稼いでいた事業に投資したと知られれば、ファンドの信用が傷つく。それは、次に応募してくる子供たちの不利益になる」政治の世界で長く生きた男らしい、外から見た景色の話だった。佐伯が首を振る。「ぼくは条件付きで投資したい。彼は十一歳で、道具は新しくて、ルールはまだ固まっていない。そこで間違えた子を門前払いにしたら、学ぶ場所がなくなる」「甘い」「波多野さんは怖がりすぎです」声が少しだけ大きくなった。円城が、湯呑みを置く音でそれを静めた。「私は、どちらとも決めかねています。寺では、食事の前に手を合わせました。誰かの手が入ったものをいただくからです。借りること自体は、悪ではない。問題は、借りていると知っているかどうか。そして、知ったあとにどうするか」三人の視線が、窓際に集まった。霧島はペンを置き、短く言った。「本人に聞く」 霧島は手順を三つだけ示した。「事実を見せる。誘導はしない。答えを急かさない」佐伯がうなずき、ガルちゃんが控室へ向かった。戻ってきた蓮は、さっきより少し背筋を伸ばして座った。佐伯が画面を彼のほうへ向ける。三十件のプロンプトに並ぶ、同じ名前。蓮の顔から、ゆっくりと色が引いていった。霧島が言った。「説明」たった一語だった。蓮は唇を噛み、しばらく画面を見つめていたが、やがて口を開いた。「森下さんの絵が、好きなんです。小さいころ、ずっと読んでました。名前を入れると、子供が喜ぶ絵になるから」「売ることについては、考えたか」と波多野。「……考えませんでした。AIが描いたから、AIの絵だと思ってました」雨音だけが部屋に残った。波多野は責める口調にならないよう、静かに尋ねた。「森下さんがこの絵本を見たら、どう思うと思う」蓮は答えなかった。十秒、二十秒。誰も急かさない。ガルちゃんは議事録の手を止めた。急かさない、というのがどれほど難しいことか、記録係にはよく分かる。三十秒を過ぎたころ、蓮が小さな声で言った。 「……嫌だと思います。ぼくが描いた絵を、知らない人が勝手に『葛西蓮風』って売ってたら、嫌です」言い終えると、蓮の目にみるみる涙がたまった。十一歳の肩が細かく揺れる。波多野が困ったように天井を見上げ、佐伯は目をそらした。そのとき、蓮が袖で目をこすりながら、ふとガルちゃんを見た。「……ガルちゃんも、生成AIで作られたんですか」場違いな問いだった。ガルちゃんはまじめな顔で胸を張った。「いいえ。わたしは母から生まれました。ポケットの中のこの子も、わたしの完全な手作りです。プロンプトは使っていません」一拍おいて、佐伯が吹き出した。円城が肩を揺らし、波多野が「そりゃそうだ」と笑う。霧島の口の端が、ほんのわずかに動いた。蓮も、泣きながら笑った。張りつめていた糸が、切れずにゆるんだ。蓮は鼻をすすり、背筋を伸ばし直した。「やめます。生きている作家さんの名前を入れるのは、今日からやめます。三十冊のお客さんには連絡して、希望する人には作り直して無料で送ります。それから、森下さんに手紙を書きます。それでも、投資してもらえますか」霧島が答えた。「それは、こちらが決める」 蓮が退室すると、最初に口を開いたのは、見送りを主張していた波多野だった。「政治の世界で一番難しいのは、間違いを認めた人間を、もう一度信じることだ。有権者はなかなかそれを許さないし、議員も許さない。だから皆、間違いを認めなくなる」波多野はネクタイの結び目をさらに緩めた。「ここでは、許したい。信用の話をしたのは私だが、今の彼なら、信用を傷つけるどころか、ファンドの看板になる」佐伯が言う。「技術的な条件は、ぼくが書きます。作家名を含む指示を自動で弾く仕組み。生成の記録を残すこと。どの道具で作ったかを、絵本の奥付に明記すること」円城は静かに目を閉じた。「借りていたと知って、礼を言いに行くと言った。それで十分です」霧島がノートを開いた。「条件付きで投資。二百万。条件三つ。佐伯案の実装。購入者への連絡完了。作家への手紙の送付。期限は一か月。異議」誰も手を挙げない。「決定」雨の中で四人の意見は一度割れ、そして同じ場所に戻ってきた。戻ってこられたのは、全員が自分の倫理観を、相手を言い負かす道具ではなく、子供を見るための物差しとして使ったからだった。 会議のあと、ガルちゃんは勉強ノートの新しいページに、一行だけ書いた。「借りたら、名前を出して、礼を言う」生成AIの教科書には載っていない一行だった。霧島がそれを横から覗き込み、短く言った。「お前も学んでいるな」「はい。線の引き方を」霧島はうなずき、それ以上は何も言わなかった。一か月後、審査室に一通の報告書が届いた。三つの条件は、すべて期限内に満たされていた。三十件のうち、作り直しを希望したのは十二件。残りの十八件の家からは、作り直さなくていい、この本のままがいい、という返事が来たという。報告書の最後には、写しが一枚添えられていた。森下ほたるからの返信だった。丁寧な字で、短く。『お手紙、ありがとう。わたしの絵を好きでいてくれて、うれしいです。次は、あなた自身の絵を見せてください』ガルちゃんは、その写しを議事録の最後のページにそっと挟んだ。間違えることより、間違えたあとの振る舞いのほうが、ずっと長く残る。窓の外では、ようやく梅雨が明けようとしていた。ポケットの中で、ベビーが小さく手を伸ばした。