五島列島の福江島、海まで歩いて三分の廃校に、十歳の子供たちが二十人集められていた。夏休みの起業合宿、正式名称は「Garoop 起業ブートキャンプ」。朝五時半、校庭にホイッスルが一度だけ鳴った。眠い目をこすりながら並んだ子供たちの前に、一頭のカンガルーが立っていた。迷彩柄のキャップ、首から下げたホイッスル、そしておなかのポケットからは小さな耳がのぞいている。「整列。三秒」。声は低く、短かった。佐世保から来た湊は、隣の紗良と顔を見合わせた。説明会で会ったときのガルちゃんは、もっとふわふわした声で「みんな、よろしくね」と笑っていたはずだ。「本日より、私はガルちゃんではない。ガル軍曹だ」。誰かが小さく吹き出した。軍曹は振り向きもせずに言った。「笑った者。名前」「……健太です」「健太。いい反応だ。笑える者は、緊張に強い。腕立ては免除」。今度はみんなが笑った。軍曹の口の端も、ほんの少しだけ上がったように見えた。 「ルールは三つ」。軍曹は指を一本ずつ立てた。「一、報告は結論から。二、言い訳は三秒以内。三、わからないことは、わからないと言え」。湊は手を挙げた。「質問です。三つ目は、ルールなんですか」「ルールだ。この合宿でいちばん難しいルールだ」。軍曹はポケットに手を添え、中で身じろぎした小さな影をそっと押さえた。「紹介しておく。ポケットの中にいるのは、最年少の新兵だ。階級はない。寝ているときに起こした者は、腕立て十回」。分隊の割り振りが読み上げられた。第三分隊は四人。せっかちで足の速い湊、パソコンを家で使い慣れている紗良、さっき笑った健太、それに地元の五島から参加したルカ。ルカは日焼けした腕に、細い木のビーズの輪をはめていた。「本日の課題」。軍曹は一枚の紙を掲げた。「この島の困りごとを一つ見つけ、解決案を紙一枚にまとめよ。生成AIの使用は許可する。むしろ使い倒せ。報告は十七時。一分隊三分」。「了解」と答えたのは、二十人のうち半分ほどだった。「声が小さい」「了解」。今度は、校舎の窓ガラスが少し震えた。 教室に戻ると、各分隊は一斉にタブレットを開いた。湊は真っ先に打ち込んだ。『五島列島の困りごとを十個教えて』。数秒で答えが並ぶ。人口減少、高齢化、交通の便、観光客の偏り。「はい、これ。一番上の人口減少でいこう。解決案もAIに出させたら、九時には終わる」。紗良は画面をのぞき込み、眉を寄せた。「ここ、『島の人口は十年で三割減った』って書いてある。どこの数字?」「AIが言ってるんだから」「AIが言ってる、は出どころじゃないよ」。湊は口をとがらせた。そのとき、黙っていたルカが窓の外を指さした。「港、行かん?」「なんで」「困っとる人に聞いたほうが早か。うちのばあちゃん、毎朝港におるけん」。健太が手を叩いた。「賛成。教室、クーラー効きすぎて寒い」。隣の第一分隊はすでに、AIに作らせた色鮮やかなスライドを三枚も仕上げていた。湊は少しだけ焦った。けれど、廊下の端で腕を組んでいた軍曹は、どの分隊にも何も言わなかった。ただ、港へ走っていく四人の背中を、目だけで追っていた。 港には潮と油のにおいが混じっていた。岸壁の端で、麦わら帽子のおばあさんが網を繕っていた。「ばあちゃん、困っとること、ある?」。ルカの祖母は手を止めずに笑った。「困っとることなら、そこらじゅうに浮いとるよ」。指さした先、防波堤の内側に、色あせたロープやプラスチックの浮き、ちぎれた漁網が溜まっていた。「どこから来たとかもわからん網が、船のスクリューに絡まる。去年はうちの組合でも三隻、止まった」。湊はメモを取りながら聞いた。「誰が片付けてるんですか」「誰でも。気づいた者が」。遠くで教会の鐘が鳴った。おばあさんはそっと手を止め、ほんの数秒、目を閉じた。ルカも同じように手首のビーズに触れた。健太が小声で湊に聞く。「今の、なに」「知らん。でも、邪魔しちゃいかんやつだ」。祈りが終わると、おばあさんは何事もなかったように針を動かした。「神様にお願いするのは、自分で手ば動かしてからたい。順番が逆になったら、神様も困るやろ」。紗良がそれを、そのまま紙に書き留めた。 昼過ぎ、四人は教室に戻った。今度は打ち込む言葉が違った。紗良がキーボードを叩く。『漁協の人の話。正体不明の漁網が港に溜まり、去年三隻のスクリューに絡まった。回収は気づいた人がやっている。この情報だけで、解決案を三つ出して。わからない点はわからないと書いて』。返ってきた案の一つに、湊の目が止まった。網の写真を撮って地図に印をつけ、回収する日を漁師とボランティアで分け合う。名前もAIがつけていた。『アミノメ』。「これだ」。ところが、その下に一文があった。『導入により年間約五百万円の損失を防げます』。「すごい、五百万。これ書こう」「待って」。紗良の声は小さいが、硬かった。「この五百万、どこから出てきたの」。AIに聞き返すと、『一般的な推計です』とだけ返ってきた。湊は机を指で叩いた。「数字がないと弱いって。第一分隊なんか、グラフ三つもあるんだぞ」「じゃあ、勝つために、知らない数字を書くの?」。教室が一瞬、静かになった。健太が窓の外を見たまま言った。「五百万円って、ばあちゃんに言ったら、たぶん怒られるよ」 湊は唇をかんだ。三秒だけ、黙った。それから立ち上がった。「ルカ、ばあちゃんに電話できる?」。ルカがスマートフォンを耳に当てる。スクリューの修理に一隻いくらかかったか。答えは短かった。「一隻、十万ちょっと。漁に出られん日の分は別」。紗良がすぐに書き込む。わかっている数字、三隻で約三十万円。漁協の聞き取りによる。わからないこと、島全体の被害額、漁に出られなかった日の損失。湊は紙を見下ろした。五百万円に比べれば、三十万円はあまりにも小さかった。「地味だな」「地味だけど、本当だよ」。紗良はそう言って、少し笑った。「本当のことは、あとから大きくできる。嘘は、あとから小さくするしかない」。湊は、そのセリフをAIが言ったのかと思って画面をのぞいた。違った。紗良が自分で考えた言葉だった。健太が紙の隅に小さく網の絵を描き足し、ルカがその横に『ばあちゃん監修』と書いた。四人の紙は、他の分隊のどれよりも文字が少なかった。 十七時。校庭に西日が斜めに差し込んでいた。最初に報告した第一分隊は、AIで作った三枚のグラフを掲げた。島の観光収入を三年で倍にする、という案だった。軍曹は一枚目のグラフを指さした。「この数字の出典」「……AIです」「AIは、どこから持ってきた」。答えはなかった。三秒が過ぎた。「次」。第三分隊の番が来た。湊は一歩前に出て、息を吸った。「結論。港に溜まる漁網を、写真と地図で見える化して、回収を分担します。名前はアミノメ」「根拠」「漁協の聞き取り。去年三隻が止まり、修理代は約三十万円」「わからないことは」。湊が振り向くより先に、紗良が答えた。「島全体の被害額です。まだ調べられていません」。軍曹はしばらく四人の紙を見ていた。それから、ポケットの上に手を当てたまま、短く言った。「第三分隊。数字が小さい。だが、全部本物だ」。湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。軍曹は分隊全体に向き直った。「生成AIは、優秀な部下だ。だが、責任は取らない。責任を取るのは、使った者だ。忘れるな」 消灯は二十一時だった。湊は寝つけず、水を飲みに廊下へ出た。職員室だった部屋の明かりが、ほんの少しだけ漏れていた。のぞくと、キャップを脱いだカンガルーが窓辺に座り、ポケットの中に向かって小さく子守歌を口ずさんでいた。朝礼の声とは、まるで別の生き物みたいに柔らかい声だった。湊が後ずさった拍子に、床がきしんだ。「……消灯後の徘徊。名前」「湊です。水を」「三秒以内」「水を飲みに来ました」「よろしい」。軍曹はキャップをかぶり直そうとして、やめた。「湊。今日、五百万円を書かなかったな」「紗良が止めたので」「止められて、止まれる者は少ない」。窓の外で、港の灯りが揺れていた。今日あの四人が試されたのは、タブレットの腕前ではなく、倫理観だった。勝てそうな嘘と、地味な本当のどちらを選ぶか。十歳の湊はまだ、その言葉を知らない。「明日も五時半だ。寝ろ」「了解」。部屋に戻る背中に、ほとんど聞こえない声が届いた。「……よくやった」。湊は振り返らなかった。振り返ったら、軍曹が困る気がしたからだ。