二〇四四年の六月、湊は五年二組の学級委員になっていた。なりたくてなったわけではない。四月の選挙で、推薦された三人のうち、いちばん断るのが下手だったのが湊だった。その日の学級会の議題は、七月のわかば祭で出す模擬店の献立だった。黒板代わりの壁面ディスプレイに、候補が四つ並ぶ。カツカレー、焼きそば、たこ焼き、かき氷。担任の杉浦先生は教室の後ろで腕を組み、口を出さない。議論らしい議論は五分で終わった。誰かがカレーの話を始めると、教室じゅうがもうカレーの匂いを想像していた。手を挙げてもらい、湊が数える。カツカレー、二十八票。焼きそば、三票。残りはゼロ。教室が沸いた。いちばん大きな声で喜んだのは、カツカレーを推した大翔だった。「圧勝! はい決定!」湊は黒板に丸をつけた。そのとき、窓際の席のナディアが、机の下で指を組んだまま、ゆっくり下を向くのが見えた。焼きそばに手を挙げた三人のうちの一人だ。湊は丸をつけたチョークを置き、少しだけ、その横顔を見ていた。終わりのチャイムが鳴った。 「ミオ。多数決って、正しいの」その夜、湊は宿題の算数ドリルを閉じてから聞いた。天井の光の輪が明るくなる。「質問の範囲が広い。もう少し絞って」「今日の学級会。二十八対三で、カツカレーに決まった」「了解。結論から言う。多数決は、決め方の一つだ。全部じゃない」「でも、みんなそうやって決めてるよ。選挙とか」「そう。大勢の考えをまとめるのに、今のところいちばん揉めにくい方法の一つだ。ただし、使う前に確かめることがある」「何」「多数決で決めていいことかどうか」湊はドリルの角を指でめくった。「決めていいことと、だめなことがあるの」「たとえば、クラスの三人を今日から無視する、を多数決で決めていいと思う?」「だめに決まってる」「なぜ」「……だって、三人がかわいそうだし、そもそもそんなの、決めることじゃない」「それだ。数で決めていいのは、全員が受け入れられる範囲の中の話だけ、という考え方がある」湊はナディアの横顔を思い出していた。 翌朝、湊は昇降口でナディアを待った。ナディアは四年生の春に転校してきた。父親がこの街の研究所で働いていて、日本語は湊よりきれいな敬語を使う。「昨日の学級会のことなんだけど」と湊が言うと、ナディアは靴を履き替える手を止めた。「カツカレー、いやだった?」ナディアは少し迷ってから、小さな声で言った。「わたしの家は、信仰の決まりで、豚肉を食べないんです。だから、自分のクラスのお店なのに、わたしは食べられない」湊は、何と言えばいいかわからなかった。イヤーピースのミオも黙っている。湊が自分で考える場面だと判断したのだろう。「なんで昨日、言わなかったの」「言ったら、みんなが困るから。それに」ナディアは目を伏せた。「わたしの家の神さまのことを、教室で説明するのは、ちょっと、こわいです」湊は頷いた。それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。ナディアが教室に入っていったあと、湊はようやく小さく言った。「ミオ。どうしよう」 「整理する」とミオは言った。「一。決まったことは決まったこととして進める。二。もう一度学級会を開く。三。先生に相談する」「二にしたら、大翔が怒る」「たぶん怒る」「一にしたら、ナディアは自分のクラスのカレーを食べられない」「そうなる」「三は」「悪くない。ただ、学級会で決めたことを先生に頼んでひっくり返すと、次から学級会の意味が薄くなる」ミオの声は、いつもと同じ速さだった。急がせもしないし、なぐさめもしない。湊は廊下の窓枠に額をつけた。「どれも、だめじゃん」「どれも、完全じゃない。完全な選択肢がない時は、どれを選ぶかより、どう取り組むかの方が大事になることが多い」「どう取り組むかって」「二つ確かめて。一つ目、ナディアは、自分の信仰をみんなの前で説明したくない。そこは守る。二つ目、大翔たちがカツカレーを選んだのは、意地悪じゃない。ただ好きなだけだ」「それは、そう」「なら、敵はいない。足りないのは、決め方だ」湊は窓から顔を上げた。始業のチャイムが鳴り始めていた。 その夜、湊は学級会の進め方を考えた。議題そのものではなく、決め方を議題にする。ナディアの名前も、信仰のことも出さずに。「ミオ、案ある?」「ある。献立を決める前に、条件を決める。たとえば、クラスの全員が食べられるもの、という条件をつけるかどうかを先に決める」「それなら、ナディアのことを言わなくていい」「そう。アレルギーの子だっているかもしれない。条件は、誰か一人のためじゃなく、全員のためのものになる」「いいじゃん」「もう一つ案がある」「何」「オーストラリア風に、カンガルー肉のカレー。豚でも牛でもない」湊は黙った。壁のディスプレイでは、録画していたガルちゃんの番組が一時停止したままで、ポケットの赤ちゃんと一緒にこちらに笑いかけている。「……ミオ。それ、ガルちゃんの前で言える?」「すべった。今のは記録から削除する」「削除しなくていいよ。おもしろかったから」湊は本当に少し笑った。それで、肩に入っていた力が少しだけ抜けた。 二度目の学級会は、思った通り荒れた。「蒸し返すなよ。多数決で決まったじゃん」大翔が立ち上がった。何人かが頷く。「民主主義って、多い方が勝つんだろ」教室の空気が、大翔の方へ傾いていくのがわかった。ナディアは窓の外を見たまま動かない。イヤーピースが小さく鳴った。「湊。深呼吸一回。それから、短く」湊は息を吸い、吐いた。「蒸し返すんじゃない。決め方を、一個足したいだけ」「何それ」「献立の前に、条件を決める。クラスの全員が食べられるもの、っていう条件をつけるかどうか。それを多数決で決める」大翔が眉を寄せた。「全員って、誰が食べられないんだよ」湊は答えなかった。答えないと決めていた。「誰かは言わない。言わなくていいようにするための条件だから」教室が静かになった。湊は続けた。「それに、大翔。もしカツカレーで決まっても、大翔は困らないでしょ。でも条件をつけなかったら、困る人が出るかもしれない。困る人が出ない方を、先に選びたい」 沈黙を破ったのは、意外にもナディアだった。ナディアは席を立ち、まっすぐ大翔を見た。「わたしです。豚肉を、食べられません」教室の何人かが息をのんだ。湊は思わずナディアを見た。言わなくていいと決めた条件を、ナディアは自分で破ったのだ。「理由は、家の決まりです。でも、わたしのために、カツカレーをやめてほしいわけじゃありません。みんなが、決め方をちゃんと考えてくれるなら、わたしはそれで十分です」大翔はしばらく黙っていた。それから、頭をがりがりと掻いた。「……なんだよ。それ、先に言えよ」「言いにくかったんです」「そっか。……ごめん」条件の採決は、三十対一だった。一票は大翔だった。大翔は手を挙げたまま言った。「条件には反対。でも、決まったら従う。チキンカツなら俺、最強のやつ考える」教室に笑いが起きた。湊は議事録に、反対一、理由あり、と書き込んだ。少数意見を消さずに残すこと。それも、決め方の一部だと思った。 わかば祭の日、五年二組のチキンカツカレーは昼前に売り切れた。衣にこだわった大翔が、得意げに鍋の前に立っていた。ナディアは自分の皿を両手で持って、ゆっくり食べた。湊は片づけのあと、校庭の隅でミオを呼んだ。「ミオ。僕、正しかったのかな」「わからない。ただ、報告はできる。湊は、誰かの信仰を教室で説明させないように動いた。多数派を悪者にしなかった。反対した一票を、議事録から消さなかった」「それって、なんて言うの」「政治観、と言う人もいる。考え方が違う人同士が、どうやって一緒に決めるかについての考え方だ。湊のは、まだ十歳のものだけど、筋がいい」「まだ、が余計」「了解。訂正する。十歳にしては、が正しい」「もっと余計だよ」湊は笑った。夕方の校庭のスピーカーから、放送部が流しているガルちゃんの歌が聞こえてくる。数で決めることと、数で決めてはいけないこと。その境目を見つける力は、たぶん、これから何度も試される。湊は議事録の写しを、ランドセルのいちばん奥にしまった。